謝罪とは何か

元世界チャンピオンのガッツ石松が語る、先日の亀田大毅選手謝罪会見への見解。

http://sankei.jp.msn.com/sports/martialarts/071130/mrt0711301700013-n1.htm

「今回は謝罪会見ではなく、ただの復帰会見。自分が犯した問題をもう済んだことにしているように見えた。自分のしたことへの見解を述べて、謝るべきことは謝るのが謝罪。会見の中では内藤選手やボクシングファンに対する言葉がなかった。まだ自分の力を過信しているようだ。それが“亀田流”といえばそうなのかもしれないが、はっきり言ってボクシングの実力はまだまだ。このまま勘違いを続けるのかもしれないが、流行は続かない」


凡百の亀田バッシングとは比べるべくもない真っ当な批判であり、愛情を感じる言葉だ。
「亀田流」なるものにも一定の理解さえ示したうえで、実力不足と自己認識、現状認識の甘さを厳しく丁寧に諌めている。
反則行為で危険な目にあわせた相手や期待を裏切ったボクシングファン(どうでもよい野次馬は別にして)に対する言葉が会見のなかで出なかったことへの指摘も、的を得たものだろう。
そして何より、「謝罪」とはいかなる行為であるべきか、あるはずかということを、読む者一人一人に考えさせる言葉である。


「自分のしたことへの見解を述べて、謝るべきことは謝るのが謝罪。」
この言葉は、たいへん重いと思う。
少なくとも、ぼくには重い。
「謝罪を済ませる」という言い回しがあるように、たいていは「謝罪する」という言葉は、自分がしてしまった過ちを直視しないままに「済んだこと」「なかったこと」にするための形式的な儀礼、という意味で用いられてるのではないだろうか。
ぼくは、そういう意味での「謝罪」ばかりを何度もしてきた、と思う。
そこには、自分の過去の行為を言語化し、引き受けて、当の相手に伝える(共有する)という、苦しい営みはともなわない。いや、その苦しみを忌避するために行われるのが、この形式にすぎぬ「謝罪」というまやかしである。


ガッツ石松が言ってるのは、それではない、ほんとうの意味での「謝罪」、つまり自分が過去に行った行為を言語化し、それを当の相手に伝えて、何かを共有するといった行為のことだろう。
そうした行為を、その事柄における第三者が、ある個人に対して要求する場合、そこには愛情が必要だ。それは、この行為が、個人にとっては、一人の生身の人間にとってはあまりにも苦しいものだからである。
上の文面から判断する限り、ガッツ石松には、その要求を亀田選手に対して口にする資格があると思う。
他にそういう人を知らない。


もうひとつ、ある人から深刻な被害やはずかしめを受けた、あるいは何らかのひどいダメージを受けた人が、その加害者である別の個人から謝罪を受けるということは、おそらく謝られる側にとっても、辛い体験だろうと思う。
それは、もちろんその時のことを(言語化されることで)想起することも苦痛であるし、また加害者である自分と同じく人間である人が、その過ちを直視して自分の弱さや愚かさに直面しているという姿を、目の当たりにすることが、やはり自分にとって辛いからでもあるだろう。
とくに、この両者の関係が日常的に近い場合には、なおさらである。できるなら、謝罪などなしで済ませたほうが、きっと楽なのだ、どちらにとっても。


ただ、それでも人が謝罪を求めることがあるのは、正しい意味での謝罪がなされずにすまされることによって、失われるもの、損なわれるものが、あまりに多いと考えることによってだろう。
それは、自分にとってもそうであるし、相手にとっても、また両者の関係に関しても、そうであるはずだ。
そのように人間が言葉を見捨てて生きることによって、自分と相手とに関わる大事なものが回復不能に損なわれてしまうことを、あまりに忍びないと思うからだろう。