図書館論議・補足

きのうの記事に、予想外に反響があったので、少し補足します。


行き場所のないホームレスの人等が町にあふれていて、それが図書館にやってきて席を占拠してたりする。
こういう状態になるのは、たしかに「行政の怠慢」が主因で、図書館でどうこうできる問題ではない。
それはそうでしょう。
実際問題、非常勤を含めた図書館員の人なり警備の人なりが、その人たちが行き場所がないことが分かっていながらも、居つかせないような対処をせざるをえないというのは、図書館で働く人たちのせいではありません。



しかしぼくが言いたいことは、図書館が業務の一環としてホームレスへのケアを行うかどうか、といったことではありません。
人命に関わることは最優先とされるべきだと思いますが、そもそもそういうことを図書館のようなところが担わされているということが不当なので、必要なのは、その不当さ(「行政の怠慢」)を批判していくことの方です。
「締め出すこと」を「仕方ない」と言って一概に是認するわけにはいかないでしょうが、本当に責められるべき根本原因は、別にあるということです。
むしろここで必要なのは、「締め出す」立場に立った一人一人が、「これは自分の意思なのか」と、常に自分に問い続ける、といったことでしかないでしょう*1


ぼくが言いたいのは、そういうことではなく、「締め出される」側でなくて、「締め出し」を要請する側に立っている、一般の利用者の問題です。
つまり、ホームレスなり誰なりを排除することによって成立する空間で行われるような「読書」なり「学問」なりに、そもそもそんなに価値があるのかということ、そこを追い出されたら死ぬかもしれない人を排除してまで守るほどの価値があるのか、ということです。
また、そういう排除によって成り立つような「公共空間」が、ぼくたちにとって本当に「公共空間」と呼びうる、守るべき空間なのか、ということ。


ブクマコメントのなかに「寝袋」という言葉がありましたが、マルクスだったかコリン・ウィルソンだったか、寝袋に寝泊りしながら大英図書館で勉強して、大きな仕事をなしとげたという人がいました。
公共図書館や公共施設が、今のように、誰かの排除によって成り立つような「居心地の良さ」を追い求めていけば、「寝袋」に寝泊りしながら通ってくるような人は、館内から完全に閉め出されてしまうでしょう。
つまり、システムに従い、管理のルールに反しないような学問の仕方しか、そこでは生き残れないようになっていきます。
そういう場所で行われる読書や、学問や、情報収集といったことに、果たして意義があるのか。


誰かを「締め出す」ことによってのみ成立するような空間で行われる、学問や芸術や情報収集といったものは、はじめから「排除」と「管理」のルールの枠内に閉じ込められて、いわばその可能性を切り詰められているのです。
ここが、肝心な問題です。
毎日の業務のなかで、やむをえず「締め出し」が行われたり、それが批判・抵抗されたりということは、どうしようもなく起こるでしょう。それが起こるような現実(行政)の方が悪いのです。
しかし、「居心地の良さ」に中心的な価値を見出して、誰かの排除(生死に関わる)を自明のルールのように考える方向へ流れたとき、実際流れつつあるわけですが、そこで得られる「自由」や「快適さ」は、また「真理」や「情報(機能)」は、はじめからぼくたちの生の現実と切り離された、まがい物でしかないだろう、と考えるわけです。

*1:一番怖いのは、自分の意思でなかったものを、自分の意思のように思いなそうとしてしまうことだと思うからです。