侵害されたもの

10日土曜日から、いよいよ大阪でも、十三の第七芸術劇場(一連の騒動のなかで、いち早く上映の名乗りをあげた館だった)で、映画『靖国』が上映される。
ぼくも時間を作って、早く参拝、いや、鑑賞に出かけたいと思います。


ところで、報道によると、今回の騒動の結果、上映する映画館が、もともと(騒動が起きる前に決まってた数)よりも、大幅に増えたそうだ。
まあ、あれだけ話題になった作品だし、全国各地で見られるところが増えたというのは、いいことだと思う。
映画というのは、なんといっても、お客さんが見たいと思う作品が見られる、ということが基本だろう。
その基本のなかに、大きな映画館があり、単館系と呼ばれるような「小屋」もあり、均一ではなく、それぞれの観客のニーズを満たして、興行の全体が回っている。理想としては、そういう感じなんじゃないかと思う。


ところが、今回のような騒動になると、そこに小さからぬ影響が出てくる。
というのは、『靖国』の上映を急遽決めた館が多くあったということは、それまで決まっていた映画で、上映が延期になったり、期間が短くなった映画が、必ずあるはずだと思うからだ。
とくに単館系の映画館でかかるようなマイナーな作品の場合、その影響は小さくないだろう。観客数が大きく減ったり、映画に携わった人の生活にも影響が出るんじゃないかと思う。


基本的には、「表現の自由」云々ということも含めて、要するに(騒動の結果)見たい人がたくさん生じたから、上映する館も増えたということである。
このこと自体は、まったく妥当だと思う。映画館主たちを責めるわけにはいかない。
だが、そうなった経緯は、上に書いたような被害(影響)を受けた人たちの立場から見ると(そういう人が現実に居たらだけど)、ちょっとたまらない。
この「経緯」は暴力的というか、不自然に引き起こされたもので、つまりは、この映画の予定されてた上映を妨害しようとした人たちは、そういう意味でも、他人や世間に迷惑をたくさんかけた、ということになる。
そのことも、反省すべきだと思う。


しかし、(ぼくの想定したような事態が現実にあったとして)ここで何が侵害されたのか、というのは言いにくい。
興行の自然なあり方に、人為的な変な力が加わったということだけど、このもともとの「自然なあり方」というものが、罪のない、無垢なものだということではない。
そこにも色んな歪みははらまれてるはずで、だからこそ「良心的な」あるいは「商売気のない」小さな映画館とかはどんどん潰れていくし、なにやら怪しげな大作映画ばかりが幅を利かせる、市場の現実みたいなものがある。
だが、そういうひどい現実のなかでも、出来るだけ変な力の侵害を防ぐようにしようというぎりぎりの倫理というか、思いのようなもので成り立ってる部分があるということも、やはり興行(商業)の世界の現実であり、そういう見えにくい大事な部分を、今回の騒動を引き起こした人たちは侵害してしまった、ということじゃないかと思う。


この目に見えない大事な部分は、人々(われわれ)の日常や生活というものに属してるけど、たとえばそれは、公園や公共施設から、「ホームレス」や「不審者」を排除することで「安全」に保たれるような日常性とは、きっと似て非なるものだろう。
むしろそれは、われわれが生き物として生きている、そのたしかなリアリティーにつながっているような、つまり「排除」とは反対の側にある、日常や生活の核心みたいなものだ。
そういうものを押し潰して、われわれは「住みやすい」空間を遮二無二作りあげようとしてるわけである。