あるべき図書館(公共施設)とは

『葉っぱの「歩行と記憶」』さんで、「図書館を考える」というテーマで、しばらくエントリーを固定されるそうです。
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20080608/p1


じつはぼくも、図書館業界で働いてたことがあるので、何かを書きたいのですが、具体的な提案のようなことは書けません。
色々思うことはあるのですが、ここではポイントと思うことをひとつだけ書いておきたいと思います。


とくに都市部の図書館の場合、ホームレス的な人がずっと居ついて困る、という悩みや苦情が、必ずあります。
このことが、「誰もが居心地のいい場所」としての図書館ということや、「本を落ち着いて読める場所」という機能とは、矛盾することとして語られるわけです。
しかし、そもそもそういう人がなぜそこに来るかというと、他に居られる場所がないからです。真夏の炎熱や真冬の寒さをとりあえず避けて身を休める場所が、都会ではなくなっていってるということが根本にあるわけです。


図書館が求める「居心地の良さ」や「公共性」というものが、そういう行き場のない人を排除することによって成り立つのだったら、そもそもそんな「公共施設」は存在する意味があるんでしょうか。
「そこから追い出されれば死んでしまう」という人のニーズと、「落ち着いて時間を過ごしたい」という人のニーズとは、等価ではありません。前者の方が絶対に重い。これは、後者を切り捨てていいということではなく、前者を基盤とする考えのなかに組み入れられて、はじめて後者の「価値」は生きたものになる、ということです。
必要なのはまず、そういう行き場のない人が無料で気兼ねなく休める公共空間を整備するということであり、図書館という施設が持つ「公共性」も、その基本の上に立って形成されるべきものだと思います。


もちろん本当は、図書館が、そんな「行き場のない人たち」の生き死にを左右するような場所という役目を負わされてしまってることがおかしい、とは言えます。これは、図書館行政の枠では、どうにもならない問題でしょう。
しかし、ぼくが言いたいのは、そういう役目をあえて負うこと(意識すること)によってでなければ、図書館という場所の持つ公共空間としての価値は、再生できないのではないか、ということです。
そうでなければ、排除とか管理ということを根幹にした空間でしかありえなくなってしまう。
「誰もが心地よく利用できる場所」という場合の、「誰も」という言葉の内実を、もっとも排除されやすい人たちに置いて考える必要があるだろうと思います。