きのうのブクマから

きのうのエントリーのブックマークから。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080327/p1

koyhoge
個々人がちゃんと判断してボイコットを決めればいいこと。状況がこのままならば私は五輪を見ない。

なるほど。妥当な意見だろうな。
実際、ヨーロッパでは個人で参加しないことを表明してる選手もいるみたいだし、政府がボイコットするかどうかを決めて選手に強制するというのも変な話だ。
選手個々の考えや人生観にもとづく判断のようなものは、たしかに大事だと思う。


ぼくのエントリーでは、大きな政治の意図によって、参加するとかしないとかいうことが決められてしまう、むしろ「スポーツ(五輪)は神聖だ」というふうな物言いによって、そこが不可侵なものみたいに偽装されてしまうことを問題にしたかった。
国という枠に縛られることなく、個々の選手が自分の考えを表明できたり、政治とは別のところにある自分の感じ方やスポーツへの愛着を大事に出来る場であることが、オリンピックの一番理想的なあり方だといえるだろう。
ただ、そうなると資本主義や国民国家イデオロギーと深く結びついたオリンピックのようなイベントは、今のような形では成立しにくくなるだろうことは確かだが。


「状況がこのままならば私は五輪を見ない。」という一人称も大切だと思う。
大事なことは、「チベットの人権」については切実な関心を持っている人が極小であるのに、「中国叩き」のような排外主義的な欲望の力は極大であるという、今の日本社会の雰囲気を踏まえてものを考えていく、ということだろう。
後者に加担することなく、前者への無関心を自己批判していくということ、前者の状況の改善に努めていくということ(実践していく)ことは、難しいことだが肝要なことであると思う。


いずれにせよ、個人が大事ってことやなあ。