プラトン『国家』メモ・その2

「そのとおり」と彼は言った。「いやしくも完全な不正をなしうる人たち、国々や人間どもの諸部族を自分の下に従属させる力をもった人たちならばね。あんたはきっと、私が掏摸(すり)たちのことでも言っているのだと思っているのだろう。・・・・・」(p79)


国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)


先日プラトンの『国家』について、正義と贈与ということで考えていけるのではないかという風なことを書いて、そのままになっていた。
もう少し書いておきたい(なお、前回の最後に「第一章」と書いたのは、「第一巻」の間違いでした)。




前回引用したところに続く部分では、まずソクラテスはポレマルコスという男と問答をする。
その概略は、要するに、正義とは「借りを返す」(報復的な意味も含む)という種類のことではない、ということなので、ここは(著者の)プラトンが正義を交換の論理には属さない問題だと考えていることの例証としては、分かりやすいのである。
だが、もっと興味深いのは、それに続くトラシュマコスという男とソクラテスとの対話である。


トラシュマコスの主張は、正義(正しいこと)とは、「強い者の利益」に他ならない、ということである。どこの国でも、「正しいこと」とはすなわち、「現存する支配階級の利益になること」である、というのである。
暴論のように聞こえるが、後にソクラテスも言っているように、これはあくまで逆説であり、現実の状況からはそうとしか考えられない、ということを叫んでいるのである。
しかも、これはただ「現実では不正義が勝利しているではないか」というだけの言説ではないと思う。


ソクラテスは、このトラシュマコスの切迫した問いに対して、「支配」や「技術」というものは、支配する者、技術を持つ者が、支配される者、技術を使用する者へと、一方的に恩恵を与える行為、つまり贈与であるはずだ、という反論の仕方をする。
羊飼いは自分の利益のために羊を育てるのではなく、無償で羊に恩恵を与えているのだ、というのである。

一般にどのような種類の支配的地位にある者でも、いやしくも支配者であるかぎりは、けっして自分のための利益を命じることも考えることもなく、支配される側のもの、自分の仕事がはたらきかける対象であるものの利益になる事柄をこそ、考察し命令するのだ。(p63)


この答えが、トラシュマコスを満足させるものでないことは、明白だろう。
事実、彼は怒りをこめて、次のように言い返すのである。

「ほかでもない、あんたは、羊飼いや牛飼いが羊や牛たちのほうの為をはかるものだと考え、彼らが羊や牛を太らせ世話することの目標は、主人の利益や自分自身の利益とは別のところにあると思いこんでいるからだ。またとくに、国における支配者たち――ほんとうの意味で支配している人たちのことだが――そういう支配者たちが被支配者に対してもつ考えは、ちょうど人が羊に対してもつ気持ちと同じだということ、支配者たちが夜も昼も頭をつかっているのは、どうすれば自分自身が利益を得るかということにほかならぬということが、あんたには分かっていないからだ。
 まったく、〈正しいこと〉と〈正義〉、〈不正なこと〉と〈不正〉についてのあんたの考えたるや、次のような事実さえ知らないほど、救いがたいものだ。すなわち、〈正義〉だとか〈正しいこと〉だとかいうのは、自分よりも強い者・支配する者の利益であるから、それはほんとうは、他人にとって善いことなのであり、服従し奉仕する者にとっては自分自身の損害にほかならないのだ。〈不正〉はちょうどその反対であって、まことのお人好しである『正しい人々』を支配する力をもつ。そして支配されるほうの者たちは、自分より強い者の利益になることを行い、そして奉仕することによって強い者を幸せにするのであるが、自分自身を幸せにすることは全然ないのである。・・・・・(後略)」(p64〜65)


こうしてトラシュマコスは、むしろ「不正」を生きることこそが、人々にとって(支配者のではなく)自分自身の利益になり、得になることだと結論付けるのである。
トラシュマコスの怒りは、まるでカール・マルクスのそれのようだ。
ソクラテスが論証する理想論に対して、彼の批判の核心は、「現実はそうなっていない」ということだけではなく、ソクラテスのように「正義」を語ることが、支配者(強い者)を利し、虐げられている者の境遇の悲惨さを永続化させることに資する、という点にあるからだ。


ソクラテスは、すべての支配は「ただもっぱら支配を受け世話を受ける側の者のためにこそ、最善の事柄を考えるものだ」(p70)と言うが、現実には、決してそうなってはいない。
それは、「不正」な者が「支配」や「技術」を握り、そのルールとシステムを決定してしまうという現実があるからである。現実の(経験的な)国家と社会は、すべてそういう者たちの思惑によって作られている。
その現実に、ソクラテスの「正義」はどのように答えるのか?


これに対して、この後ソクラテスが語ろうとするのは、(個人の正義のアナロジーとして)国家が現実にそのような不正義の形態をとるのはなぜか、という事についてだ、とも考えられる。それは、トラシュマコス的な「正しさ」への批判という意図を、暗に含むものかもしれない。
このトラシュマコスとソクラテスの対話について、第2巻の冒頭では、別の登場人物が見事な総括を行い、「正義とは何か」というテーマを、現実の生における利得や損害の有無から切り離して、つまり交換の論理とは別のところで論じるべきだと意見を述べ、それにソクラテスも同意する。
つまり、これ以後のこの本の議論の展開は、もっぱら形而上の世界についての記述であると考えられる。
しかし、このトラシュマコスとの熱を帯びた対話の部分は忘れ去られるわけではなく、理念としての正義と、現実の国家の不正義との関係という問いは、この本の空間に残響し続けると思うのである。



まとめきれなくなってきたので、この辺で終わります。。