実存主義の思い出(個人的)

ほんとの雑談です。


きのう、こちらの記事を読んでいて思い出したのだが、ぼくが子どもの頃、つまり70年代の中頃かと思うが、父親の本棚に何冊か実存主義関係の本があった。
その頃は、たぶん戦後何度目かの(二度目、三度目?)「実存主義ブーム」も終わってたはずで、哲学書など読みそうもない父の本棚になぜそういう本があったのかは不明。
ぼくが読んだのは、ジャン・ヴァールの『実存主義的人間』という本、それからカール・レーヴィットのたしかハイデガー関係の本。
前者は、そんなに専門的でなくて、「実存主義の源流と歴史」みたいなことが書いてあったと思う。
それから、ハイデガーと並ぶサルトル以前の実存主義の大御所と言われていた(といっても、どちらも自分は実存主義者じゃない、と言ってたのかな?)ヤスパースの『理性と実存』という薄い本があった。
実存主義関係で、日本で最も扱いの悪い思想家は、サルトルよりヤスパースの方ではないかと思う。ハイデガーとは大違いだ(まさに、国柄だよなあ。)。
ヤスパースをよく語っている大物の人というと、ぼくには野田正彰さんぐらいしか思い浮かばない。それも、実存哲学者というより、精神医学の大家、「罪責」を語った戦後ドイツの良心の象徴としてであろう。
サルトルもだが、ヤスパースも、日本でもっと見直されるべきだ。というか、自分が読まなきゃな。
サルトルの本は、たしか岩波新書の『ユダヤ人』があったと思うのだが、いま手元にあるその本と同じ品物かどうかは分からない。


それから学校の図書館で『存在と時間』やキルケゴールの本を借りて読んでたのは、どういうつもりだったんだろう?
ほとんど理解できないのに読んでることは、今も変わりない。
キルケゴールの本(中公版の『世界の名著』だったと思う)は、訳者の舛田啓三郎の学生時代の思い出、旧制高校の休みのときか何かに帰省中に丸善に頼んでいたドイツ語(たぶん)のキルケゴールの本が届いて、熱中して読んだのが「出会い」だった、というふうな文が載っている分厚いものだった。
いい文章だったなあ。