心の痛み

よく分からないが、どうにも気になるので。

「斎戒沐浴してサイン」 死刑執行で鳩山法相



記者会見のときの映像を見ると、この人はほんとに「心の痛み」を感じてるのだろうとは思う。
安倍元総理もそうだったが、この政治家も傷つきやすい個人の心を持っているという印象を受ける。ひと言でいえばナイーブ、あるいは「ヤワ」だという感じだ。
それは優しさとか、「人間的」ということと無縁ではないはずなので、ぼくはそのこと自体を否定的に言いたくはない。


しかし、やはりどうしても分からないのは、自分が「心の痛み」を感じることが苦痛であり、それを感じたくないという気持ちが、たとえば「死刑の自動化」の提案に結びついてしまうことだ。
「私」の心が痛みを回避することさえできれば、それでよいのか。この個人の心がそのナイーブさによって保持しようとするものは、たったそれだけのことなのか。
死刑が執行され続ける以上、「私」の心は痛まなくても、執行する誰かの心は痛む。そしてそもそも、誰かが誰かを殺すという行為(この殺す誰かが、具体的に特定できなくとも)が法の名のもとに正当化されるということ、そのことによって、いかなる「私」の心も傷つき痛まないわけにはいかないはずだ。


「安倍・鳩山」的な心のナイーブさ、優しさは、そうした事実の場所には触れることがないようである。
そのことをどう考えたらよいのか、ぼくはよく分からずにいる。