薬害C型肝炎訴訟報道に思う

きのうニュースを見てたら、「今後は原告と製薬会社が、どのように譲り合うかがポイントです」と言ってたけど、原告はいったい何を譲るんだろう、と思った。
原告のなかには、感染が知らされなかったばかりに死んでしまった人もいる。
今まで放置されたり、国に無視され続けた被害は、ほんとうなら数値に換算できるものではないだろう。
「和解」することを、原告側の社会的な義務みたいに言う言い方には、納得できない。
だいたい、「和解」ということが、この問題(どこまでを「この問題」と呼ぶべきか、分からないが)全体の幕引きに利用されるようなことがあっては、絶対いけないと思う。
以下、よく分からないながら、報道をみて感じたことを書いておく。


まず、いま問題になってることが、全体のなかでどのぐらいの分量をしめることなのかが、たいへん分かりづらい。
全国には、C型肝炎の感染者は200万人居ると言われてるそうだ(またC型に限らずウイルス性肝炎に感染している人は、約350万人居るとされてるらしい。)。ただ、この病気は、発病するまでにとても長い年月がかかるので、実際の感染者の数というのは、それよりも多いはずだが調べようがないということだろう。
そのうち、今回問題になっている血液製剤による感染者というのは、ごく一部である(1万人以上、とする報道があった)。その他の人たちは、その多くが過去の予防注射や、輸血、注射などの医療過誤によってこの病気に感染しているとされてるが、詳細は不明。つまり、少なくとも200万いるとされるC型肝炎の感染者(ウイルス性肝炎全体なら、少なくとも350万)のうち、血液製剤による感染者以外の人たち(それが大部分だろう)の感染経路は、まだ明らかにされてないのである。いや、血液製剤による感染の経路も、まだまったく明らかになってない。
C型肝炎に感染した人は、インターフェロン治療という高額で副作用の危険も大きい治療をうけなければならなくなる、とのこと。
つまり、この病気の全体像を考えたときに、救済されるべき人の数と、究明されるべき事柄の総量とは、膨大なものであるということである。
この病気の感染は、戦後の(ここでは日本の)医療の仕組みと不可分に結びついているはずだが、その全体の解決(解明)ということからみると、いま裁判によって表面に出てきていることは、氷山の一角にすぎないということになるのである。


現在、政府・与党が行おうとしているインターフェロン治療への助成など検査や治療による患者の救済措置は、全面的なものになるようなので、その点には期待したい。しかし、それが仮に額面どおり行われたとしても、この病気をめぐる過去と現在のいきさつ、感染の発生と患者たちが放置・無視されてきたこと、その結果言語を絶するほどに多くの人命や人生の時間が奪われて戻ってはこないこと、そのことに関する真相の究明や責任の追及ということは、いったいどうなるのであろうか?
血液製剤による感染ということに限って言っても、新聞によればその感染者の総数は1万人以上とされるが、そのなかで薬害の証明が出来る人は数百人にとどまるという見込みがされてるらしい。フィブリノーゲンという薬を投与された人28万人の追跡調査を行うという発言を大臣はしていて、それが実現するのかどうか分からないが、かりに行われたとしてもそれで「全貌の解明」がされたということになって幕が引かれてしまうのではないか。


この裁判が社会全体に投げかけている肝心なことは、そうした「真相の究明や責任の追及」の必要性ということだろう。
ただ、ここで忘れてはいけないことがある。それは、この裁判を行っている患者の人たちは、すでにそういう「問いの投げかけ」という社会的責務を十分に果たしているということである。
いまこの人たちにとって一番肝心なことは、個々の救済、もちろん経済的な補償を含め、精神的な苦痛の解除を含めて、個々の人生が少しでも救済されることという一事であるはずだ。


こうした裁判闘争や運動においてはいつもそうだが、裁判を起こしたり運動を立ち上げたりした当の本人、つまり当事者(被害者)たち本人に、「真相の究明や責任の追及」を貫徹すべき最大の責任があるかのような空気を、われわれ一般社会の側が作ってしまいがちである*1
「われわれ」という以前に、ぼくはそうだ。
しかし、苦痛を被ってきた人たちがなすべき行動の本義は、あくまで「救済の獲得」であるべきだろう。
「真相の究明や責任の追及」は、またしたがって「和解」というレトリックによって曖昧になれてはならない本物の「救済」の実現は、出来事の「当事者」ならざるもの、つまりぼくたちの側に課された責務なのだと思う。

*1:もちろん、「運動」や「闘争」を支える側にもいくばくかの責任はあるだろう。