ジェイムソン『21世紀に、資本論をいかに読むべきか?』
前回に書いた「オリガーキー」という言葉だが、ググってみたら寡頭制のことだと書いてあった。少数の人間が支配する政体のことで、多数支配を対義語とする、とあった。まあ、今の日本の実態にほぼあてはまりそうである(今だけか?)。
さて、この本も図書館が閉館になる寸前に駆け込みで借りたもの。著者のフレデリック・ジェイムソンだが、日本のポストモダンブームが全盛だった80年代ごろにはよく聞いた名で、僕も『言語の牢獄』という本を読んだことがあるが、なんだかよく分からなかった。
今回、この本を読んでみて、これほど直球の左翼の思想家だったのかと、驚いた。日本のポストモダンブームを代表していたような論者たちの現状と比べると、さすが米国の左翼知識人は、筋金が入っていると思う。
さて、書名の通り、「いま資本論を読み直す」という、特にリーマンショック後、急増した趣旨の本なのだが、ジェイムソンの『資本論』読解は、一見意表を突くものである。それは、「失業」という概念の重要性に中心を置くということだ。
『このマルクスの「法則」、すなわち「資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるをえないということになるのである」という法則は、戦後の一九五〇年代、六〇年代の裕福な時代には、おおいにあざけりの対象となった。今日では、それはもはや冗談の種ではなくなっている。グローバリゼーションをマルクスが予言したことと並んで、この分析こそ『資本論』の今日的で世界的な規模におけるアクチュアリティーを更新するものだと言える。また別の意味では、この分析は「包摂」の一局面を指し示しているとも言える。経済外的なもの、社会的なものは、もはや資本の外側には存在せず、それらに吸収されてしまった。(中略)したがって、失業―あるいは極貧、貧民―の状態にあることはいわば、資本によって雇用されて失業の状態にあるということになる。失業者はまさしく、機能していないことによって、経済的な機能を果たしているのである(たとえ彼らがその働きに対して報酬を得ていなくとも)。(p116)』
たとえば熊野純彦のように、金融資本の重要性に着目したことに『資本論』の現代的読み直しの鍵を見ようとする立場もあると思うが、ジェイムソンはそうではなく、『資本論』がやはり産業資本の構造を論じた本であることを強調する。
なおかつ、これも広く見られる「本源的蓄積」や「植民地主義」の問題に重きを置くような『資本論』の読解にも、ジェイムソンは異を唱えるのである。
『われわれは引き返して、(引用者注: 植民地化や原始的蓄積とは)別の道を辿らなくてはならない。それは組み合わせのもう半分、つまり労働人口の生産の道である。この道を辿ることを正当化する術は、そもそも資本主義を作り上げたのは労働者であるという事実を思い出すことである。(p133)』
ジェイムソンが着目するのは、生存と再生産の問題とも呼べる次元である。
そこから、マルクス自身の著作としては未完に終わった『資本論』全体の構想を想像し直すという雄大な観点が出てくる。
『ここまできてようやく銘記されるべきは、再生産の問題こそが、時間のパラドクスを解く鍵なのであり、『資本論』がこの再生産の問題全体に着手するときは、『資本論』の全体計画が開示されるときでもある、ということである。すなわちマルクスの共時的な「表象」が仮面を外され、見捨てられ、第二巻のめまいのするような流通のリズム、第三巻の読者をさらに惑わせるような多資本間の共時性のイメージを投射しつつ、資本システムの巨大な時間性がものものしく姿を現わすのである。(p176)』
これは、ジェイムソンらしいと言えると思うが、彼は『資本論』という書物では、「労働」が描かれてないということに注目する。マルクスが、この書物での冷徹な資本主義分析を通して迫ろうとしたもの、それは「労働」の表象不可能性であり、また労働者とその家族が置かれた生存の現実、一言で言えば「貧困」の表象不可能性であると、ジェイムソンは言う。
この、資本主義という動態の核心をなす描き得ない(表象不可能な)もの、言い換えれば、表象不可能な現実の核心、それこそが、マルクスが『資本論』の弁証法的定式によって暴き出した「失業」というものだ、ということになる。
そして、この「失業」という生存の現実が、資本主義という動態の行末の鍵を握っているという事実は、マルクスが予言した資本のグローバル化(暴力的拡大の全地球的展開)が現実のものとなった現在においてこそ、その重みを最も増している、と言うのである。
『弁証法的な定式の衝撃は、資本主義的生産様式が、社会民主主義のような施策によっては任意に停止することができないかたちで拡大を続け、生産を続けるものであること、新しい形の蓄積と失業者予備軍の拡大とが破滅的に一体となっていることを強調したことにあった。そして現在、その事態は、地球規模で進行している。利潤動機は、いまや「経営合理化」のイデオロギーのもとで拡大増幅されている。銀行や投資家は、「効率」の名のもとにより多くの失業を生み出すことのできる企業を評価する。こうした展開は異常なことではなく、歴史の流れから言って論理的に妥当であり、資本主義そのものの拡張に伴う性質のものなのである。マルクスの「絶対的な一般的な法則」はこの動態性を指摘しようとしていたのであり、たんに一国の企業文化のような、余計な、もしくは避けられるような戦略としてそれを嘆くことに留まっていたのではない。(p217)』
そして、結末部では、次のように言う。
『本書で概略してきた『資本論』の動態性によってこそ、われわれはグローバリゼーションをマルクス主義の立場から分析することができるわけだが、この分析が可能にするのは、こうした多数の悲惨と強制的な怠惰の状況を喜んで記録することであり、軍閥と慈善団体の侵略にひとしく無力に餌食となってしまう人口層を、また、活動もなく生産もない、そこでは純粋に生物学的な存在の時間性が解釈されうるような、あらゆる形而上学的な意味から言ってありのままの生活を、喜んで記録することである。
私の信じるところでは、こうしたすべてのことを、さまざまな悲劇的な情熱ではなく、グローバルな失業の観点から考えることこそが、いま一度、地球規模での変容をもたらす新しいタイプの政治学を発明することにつながるのである。(p253~254)』
