フロイトの「幻想の未来」

幻想の未来/文化への不満 (光文社古典新訳文庫)

幻想の未来/文化への不満 (光文社古典新訳文庫)

しかしここで指摘された矛盾のうちで、とくに重視されている矛盾について考えてみよう。人間は理性的な根拠にはあまり影響をうけず、欲動の願望に完全に支配されている存在である。だとすると、人間に欲動の充足を禁じて、理性的な理由を与えようとしても、意味があるのだろうかという疑問についてである。ただしこれについては、人間はたしかにこうした存在であるが、そうでなければならないのか、人間のもっとも内的な本性からして、こうした存在であらねばならないのかは、自明なことではないことを指摘しておきたい。(p97)

(前略)たしかにわたしたちは、人間の知性の力は、欲動の生の力と比較すると弱いものだと、繰り返し強調してきたし、それは正しい主張なのである。しかしこの知性の〈弱さ〉には、ある特別な要素があるのだ。知性の声はか細いが、聞きとどけられるまでは、黙すことはないのである。繰り返して拒否されても、やがて聞きとどけられるものなのだ。そこに人類の将来について楽観できる数少ない理由の一つがある。(p109)

ここでフロイトが展開した宗教批判、宗教教育批判の重要性は、現在でもまったく意義を減じていない。
それは、フロイトが批判した「宗教」とは、「人間の本性はこんなものだから仕方がない」という現状容認的な考え(思考停止)の普及による支配の形態、『宗教による思考の禁止の力』(p99)ということに、その力点を持つものであり、現在は、通常宗教の名で呼ばれるものにとどまらず、自国(自民族)中心主義とか歴史修正主義とか新自由主義とか、ある種のリベラリズムとか、さまざまな形態をとって、そうした支配の形態(思考の禁止)が幅を利かせていると思われるからである。
フロイトは、文化を「自然から人間を防衛する」ものととらえるわけだが、欲動のままに自由を求める人間にとっては文化による強制は敵視されるほかないものだから、「人間を文化と和解させ」る方策が必要であると言う。
それがつまり、「宗教」をはじめとするさまざまな「幻想」の存在理由であるが、フロイトは、そうした幻想が人間にとって不可欠なものであることを認めながらも、むしろだからこそ、「知性」によって自分が幻想のなかに生きているという現実を常に批判的にとらえ続けることの大事さを説いたわけである。


この、幻想(文化)に対するクリティカルな認識の鋭さは、当時のヨーロッパ社会において、ユダヤフロイトが置かれていた位置に深く関係しているはずだ。
そのことは、次のような一節を読むときに、とりわけ生々しく感じられるのである。

文化の理想から生まれるナルシシズム的な満足は、文化圏の内部で、文化への敵対的な姿勢を効果的に抑える力ともなりうる。この文化から大きな恩恵を受けている特権的な階級だけでなく、抑圧された階級も、こうしたナルシシズム的な満足を享受することができるのである。それによって抑圧された階級は、文化圏の外部にある人々を軽蔑する権利があると考えるのであり、みずからの文化圏において抑圧されていることの代償とするからである。
 人間はいわば、ローマ帝国において負債と兵役に苦しめられる哀れな下層民なのだが、他の国の人々にたいしてはローマ市民としてふるまうのであり、他の国を征服し、他の諸国にローマの法律を強制する任務に参加するのである。このようにして抑圧された階級は、みずからを支配し、搾取する階級と自己を同一視するのであるが、これはもっと大きな状況の一つの例にすぎない。(p27〜28)


ここから例えば、イラク駐留のアメリカ兵というような、外国の戦時のイメージが思い浮かべられるだけではない。ここに描かれているのはむしろ、現在の「平和」な市民社会国民国家に生きるわれわれにとって、身近な現実の姿であるといえるだろう。
フロイトは、「文化」(たとえば市民社会)の根底にあるもの、その暴力性を凝視しながら、人間にとっての「文化」の必要性を同時に説いた。
それは彼が、当時のヨーロッパ文化や市民社会の内側と同時に外側でもあるような位置に生きていたからこそ、可能となった視点だろう。
まさに、こうした思想のあり方こそ、思想の「ユダヤ性」と呼ばれたものの核心だったはずだ。「周縁に生きる者」という視点を失ったとき、したがって市民社会国民国家のようなものが「幻想」であることを、批判的に自覚できなくなったとき、もはやそこに肯定的な意味での「ユダヤ性」の思想が存在しないことは言うまでもない。