釜ヶ崎の暴動から受けとる(聞きとる)べきもの

さきほど生田武志さんのホームページを見ていたら、以下の記述があった。
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays13.htm

今日は西成署に花火を打ち込む若者もかなりいたようだ。上で「野宿者に投げていた石をこの2〜3日だけ機動隊に投げていただけかもしれない」と書いているが、それを見ていると、よくある野宿者への花火の打ち込み襲撃を思い出さざるをえなかった。
つまり、共闘か襲撃かは紙一重でありうる。だからこそ、「彼らはおもしろがって便乗しているだけだ」と切り捨てるのではなく、ビラであれ何であれ語りかけるべきなのだろう。


生田さんはもちろん、『<野宿者襲撃>論』の著者として知られているが、日常的に頻発しているという野宿者に対する若者たちの「襲撃」は、今回のような暴動以上に、報道され問題にされることが少ない。
じつは、先日このブログに案内を載せた東京蒲田での生田さんの講演の様子を、音声ファイルに録って送ってくださった方があり、たまたま最近聞いた。
そのなかでは、たとえば路上で寝ているところにガソリンをかけられて火を付けられ、火だるまになって瀕死の重傷を負ったり、眠っているときにナイフで眼球を突き刺されて半失明状態になったりという凄惨な「襲撃」行為が都会の真ん中で繰り返されているにも関わらず、それらが大きく報じられることはなく、被害者が死に至るような事例、とりわけセンセーショナルな報道の題材となるケースにのみマスコミがとりあげること、そしてその場合でも、野宿者が被った被害の深刻さや、日々置かれている危険な状況が論じられることはなく、もっぱら加害した少年たちの「凶暴さ」のみが空恐ろしく描かれるのみであるという実情への、生田さんの怒りが語られていた。
つまり、日々「襲撃」の脅威にさらされている野宿者の生命や生存は、マスコミとわれわれの社会の日常のなかでは、まったく軽く扱われている。若者たちによる「襲撃」が非難されるのは、野宿者の安全を守ろうとするためではなく、得体の知れない凶悪で暴力的な者たちをバッシングするがためにすぎない。
ここでは、野宿者と共にこれら若者たちへの社会的な排除が行われ、同時に野宿者の生命が一般市民のそれよりも軽視され、低い序列のもとに置かれていること、いわば生命の価値の序列化のようなことが行われているのが分かる。
こうした社会全体の価値観が内面化された結果として、若者たちによる「襲撃」の暴力をとらえるというのが、生田さんの『<野宿者襲撃>論』のモチーフではなかったかと思う。


生命の価値に序列がつけられ、軽視されてよい人命や生存があると考えられるとき、すでにその社会では人間の生の意味や尊厳ということ、人が人を殺したりひどく傷つけるべきでないということ、とりわけそういうかけがえのないものとして自分の人生(生存)の意義を見出すという可能性は失われているのだと思う。
今回の暴動に対する警察の態度、報道のされ方、世間全体の反応を見ていて、強く思うのは、そういう「生命の価値の序列化」という発想が、社会全体に、深く根付いてしまっているという印象である。
それは端的に、この暴動を語る論調が、労働者の人たちの「不満」のはけ口としてしてしか、今回の怒りや行動というものを見出しえていないことに現れている。問題は、「不満」ではなく、「尊厳」を傷つけられてきたということへの怒りの爆発ということだろう。そして、人間の「尊厳」とは究極的には何かといえば、生命の価値の(私とあなたの間の)絶対的な平等ということ以外になんであろう。
この暴動は、そのことこそを警察とわれわれとに問いかけているはずだが、そのことの意味を自覚できる人はあまりに少ない。

暴力を育むもの

ところで、生田さんの見解は、朝日放送の『ムーヴ』という番組の中で、きのう詳しく紹介されていた。
同じ番組のなかで、正確な表現を覚えていないのだが、鈴木邦男釜ヶ崎の暴動について、こういう行動がちゃんと行われていれば、秋葉原の事件のようなものは起きない、という意味のことを言っていた。
これは乱暴に聞こえるが、大事な点をついていると思う。
それは、ここで問題になっているのは、人間としての尊厳を傷つけられた(られてきた)人たちの怒りを正当に評価する社会であるかどうかである、ということであり、それをきちんと認められる社会であることが、暴力の不幸な形での発露(秋葉原の事件のような)を抑止する、唯一根本的な方法だ、という視点である。
上に述べたように、「尊厳」というのは、究極的には自他の命の価値を比較不能なものとして見出す、ということにつながっているはずだからである。
それがないところに、暴力の過剰を防ぐ根本的な力はないはずだ。


生田さんは、ホームページのなかでまた次のように書いていた。
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays13.htm

釜ヶ崎日雇労働者は、「日雇い労働」という労働形態のために常に貧困に直面し、さらに野宿、路上死、襲撃などの問題に直面してきた。
今回、西成署に集まった労働者の多くは、自身や友人・知人が西成署に受けた暴力や差別を体で知っている。(寄せ場ではよく知られた話だが、西成署の警官は釜ヶ崎労働者のことを「450」(ヨゴレ)という隠語で呼んでいた)。その抗議に対して、西成署は謝罪はおろか、話し合いをすることもなく、放水、消火剤噴霧、そして再びの暴行で応じている。
きっかけは今回の暴行事件だが、すでに西成署の長年にわたる釜ヶ崎労働者への差別・暴行、そして今回の対応に対する直接の抗議へと変化している。
いま、釜ヶ崎には多くの若者が集まっている。報道は、若者を「野次馬」と呼ぶ。だが、90年暴動でもそうだったように、「これは自分の問題だ」と直感して駆けつけてきた若者も多いはずだ。


1990年10月の釜ヶ崎暴動は、西成署刑事が手入れ情報と引きかえに、暴力団から1000万円以上の現金を受け取っていたことから起こった。また、1961年の暴動は、交通事故で負傷した労働者を放置した警察への抗議から広がった。
数々の暴動は、西成署の釜ヶ崎労働者への差別・暴行、不祥事に対して労働者が抗議を行なうことから始まっている。しかし、過去、常に西成署は自分たちの過ちを労働者に対して謝罪することなく、むしろ抗議に集まった労働者を捕まえては、警察に引きずり込んで暴行を加えていた。
西成署は、同じ事を繰り返すつもりなのだろうか?


差別や暴行・放置に対する、人間としての正当な怒りが、今回の抗議と暴動の根底をなすものだ。
それは、警察の非道への抗議・抵抗であるだけでなく、われわれ社会の一人一人にも向けられた問いかけであると捉えるべきだろう。
だが、警察は無論のこと、おおむねこの連日の衝突を無視し、あるいは出来事の経緯を警察の言うままに報じて事柄を矮小化しようとするマスコミも、また冷笑的な眼差しをむけるわれわれの社会の大部分も、この「人間としての正当な怒り」を決して認めようとしないのである。
それは、この人たちの「怒り」を認め直視すれば、それは警察のみならず、自分たちの既得権益の正当性への疑いということに帰結せざるをえないことを直感しているからだ。それはつまり、「生命の価値の序列化」を暗黙に当然のものとするような社会のあり方を拒む生き方を、われわれが要請されるからである。
日本人と外国人の生命、地方(僻地)の人間と都会の人間の生命、金持ちと貧乏人の生命、一般市民と野宿者の生命、障害者と健常者の生命、それらのあらゆる価値の序列化が、われわれの社会の暗黙の前提のようになりつつある現実があり、そのもっとも早くからある現れのひとつとして、釜ヶ崎の人たちが置かれてきた境遇がある。今回表現されているのは、その現実への抗議なのである。
釜ヶ崎の人たちの人間としての尊厳、生命や権利を認めない、軽視するような論理の上に、われわれの社会が乗っかって成立してきたのであり、西成署の対応は、その社会の総意にもとづいて是認されてきたものだともいえる。
それが分かっているから、いまさら、この差別してきた人たちの「人間としての正当な怒り」などを認めるわけにはいかないと、われわれの多くは思うのだ。


まさにこの、特定の人間にはその尊厳も権利も認めないという態度こそが、生命の価値への根本的な否定によって、自他への無差別の破壊的な暴力への契機を、その社会のなかで生きる人のなかに育むのだと言える。
この根本的な否定を、暴動が発する真のメッセージへの黙殺によって、なおも継続し固めていこうとする、マスコミや社会全体の態度の醜悪さ。
警察の強圧的な態度のみならず、日雇い労働者たちの人間性を無視・軽視した(怒りの正当さを認めない)マスコミの報道や、大人たちの冷笑的な言及こそが、例えば「襲撃」や無差別殺人にもつながるような暴力の芽を、子どもや若者たちのなかに日々育てているのだ。


「野宿者襲撃」論

「野宿者襲撃」論