征服と抵抗

『歓待のユートピア』のなかでルネ・シェレールは、スペイン人コルテスのアステカ征服についての、アステカ人自身による物語(サーガ)を分析するツヴェタン・トドロフの考察を紹介している。


アステカ人たちは彼らの神話にもとづいて、征服にやってきたスペイン人たちを「古い神々」であると誤認してしまう。アステカの君主モクテスマは、『恐慌に陥っていると同時に巧妙に立ち回ろうとし』、一方で魔術師たちを派遣してスペイン人たちの動静をさぐり、呪いによって彼らを病気にさせようとしたり、「竜舌蘭の垣根」を設けたりする防御策をしきながら、その一方でコルテスたちのために宝物庫を開き、前代未聞の豪勢な宴を開いて征服者たちをもてなしたりする。だが結局はそれは、スペイン人たちによる虐殺によって終焉を迎えることになる。 
 トドロフは、その過程を物語る絵文書や記録のなかに、「インディオの生の声にもっと近いと思われる答」、この過程についての彼等自身による見方を見出す。シェレールの要約によれば、それは次のようなことだ。

それは「災厄の責任者とみなされるモクテスマの罪」があったということ、そしてその罪は、彼の受動性にではなく、「諦観が肝心であった」ときに不都合なイニシアチブを発揮した、その「度外れの傲慢さ」に起因する、ということだ。ここからトドロフは次のように結論を導く。「今日の読者なら、モクテスマの敗北の原因は、彼をスペイン人から区別するもの、すなわちその宿命論や適応の遅さにあったと考えるかもしれない」。しかし、インディオの物語の観点からみれば真実はその反対なのだ。すなわち、敗北の原因は「宿命論の欠如、既成のコードの外で行動しようとする欲望」にあった。このパラドクスの中に見抜くべきは次のことである。つまり「このように、みずからの皇帝の有罪を主張することによって、物語は実際にはスペイン人によってもたらされた新しいイデオロギーを拒否しているのである。こうした物語の存在そのものが、メヒコが被った征服――ここではもはや軍事的な征服ではなく精神的な征服である――に対立する行為となる。モクテスマは、まさにこの物語が高らかに主張しているようなインディオの伝統的精神に背いたがゆえに罰せられたのだ。こうした意味をこの征服―敗北に与えることは、同時にこの征服―敗北を克服することにほかならない」(安川慶治訳『歓待のユートピア』 p129)


強大な「新しいイデオロギー」に対する精神的な抵抗とは、こういうものだろうと思う。


歓待のユートピア―歓待神(ゼウス)礼讃

歓待のユートピア―歓待神(ゼウス)礼讃


(なお、トドロフのもとの文章は、こちらの本のなかに訳されているらしい。)


アステカ帝国滅亡記―インディオによる物語 (叢書・ウニベルシタス)

アステカ帝国滅亡記―インディオによる物語 (叢書・ウニベルシタス)