釜ヶ崎フィールドワーク

23日土曜日、先日北海道でのワークショップに参加したメンバーなど数人で、釜ヶ崎をフィールドワーク。この町で研究を続けている方に、歴史や現状を説明してもらいながら、あちらこちらを見てまわった。
この感想を書くのはむずかしい。


ぼくは、先に書いた70年代のこの町についての上映会のときや、夏祭りのときなど、最近でも数回はここに来ているが、詳しく事情を説明してもらいながら、またときには地元のおじさんたちと接しながら、ここを歩くのははじめてだった。
それで、これまでには感じたことのない、感触みたいなものがあった。
それは、生きている人間の命が、たんなる労働力として細切れにされて売り買いされ、管理されてきたという現実であり、また用済みとなれば捨てられて見向きもされなかったという歴史の感触。
北海道で働かされたあげくに、死ぬとそのままそこに埋められた人たちの遺骨に接してきた直後ということもあったのかもしれない。
とにかく、使い捨ての商品として扱われてきた命というものの感触、ひらひらと震えている感じ、その記憶に、いま現在の自分自身の、自分たちの命のありさま、置かれている状況の現実がそのまま重なるように思えて、なにかめまいのような、軽い身震いのようなものをおぼえた。


もうひとつ、最初新今宮の駅を出たところにある「あいりん総合センター」という大きな建物に入ったとき、ここは一階の軒下の部分にもよく労働者の人たちが大勢いて、何度か横を通り過ぎたことがあるのだが、はじめてその二階にあがった。
早朝には、ここで労働者がその日の仕事を見つけるためのやりとりが行われるらしいのだが、ぼくたちが行った昼頃の時刻には、祭日だったこともあるのか、センター内の職安も窓口も閉じていて、コンクリートのがらんとした広いフロアには、日雇いの仕事ににあぶれたのだろう多くの人たちが、かばんや荷物を傍らに置き、敷物を敷いて床に横たわっていたり座っていたりした。
「ドヤ」と呼ばれる宿泊施設には、不景気で仕事がなくなると、またそうでなくとも今のように他の手段(情報誌や携帯など)で人手が調達できるため、高齢の人たちがこの土地で日雇い仕事を見つけることが困難になってくると、金が手に入らぬため泊まることができず、人々は荷物をもったまま一日さまようのだろう。
この建物は、六時には閉じるそうだから、それからはあの人たちはどこに行くのだろう。
路上しか行くところはないのではないか。
あそこで寝ていた人たちは、ぼくたちにとって、いったい誰なのだろう。
「明日はわが身」というのとは、これは別のことだ。


この建物の、くすんだ古いコンクリートを見て思い出したのは、以前に書いたことのあるジョン・セイルズの『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』という映画のことで、そこに出てきたニューヨークのエリス島にあるかつての移民局の建物の、石でできたイスや柱を手のひらで触ると、異星人(アフリカ系アメリカ人が演じている)はそこに刻まれた百年以上前の人たちの慟哭や嘆きやうめき声が聞こえてしまい、怖がるのだ。
国家や行政と支配的な社会によって拒まれ、あるいは都合よく門戸を開かれては酷使されたり、死に赴かされたりしてきた人たちの、声と命の感触、その記憶。
そういうことを思わせる共通した空気が、この二つの場所にはあるのではないかと想像した。


たぶん魂の力が薄い自分には、自分にとって、この町、ここにいる人たちの姿と生がなんであるのか、まだ分からない。
その輪郭だけ、おぼろげに見えてきたが。