テポドン・何が同列か?

最近のテポドンをめぐる騒動のなかで、ずっと気になっていることがある。
それは、戦争や日米の軍事同盟の強化に反対したり、自民党の政策に反対するような勢力の人たちのなかで、今回の出来事に関し、「アメリカによる軍事行動と北朝鮮によるミサイル発射を同様に批判する」というふうな言い方を、よく目にすることである。
これは、これまで自分たちが批判してきた大国の行動と、今回の朝鮮の行動とを、いわば同列に並べて非難しているわけで、どちらも国家が行なう危険な軍事行動には違いないから、「平和勢力」の態度としては一見筋が通っているようにも見えるのだが、自分のなかではちょっと引っ掛かっていた。
今日考えていて、何が引っ掛かっていたのか、少し分かったように思った。


上記のような言い方は、米軍がイラクに侵攻する直前に、共産党などが掲げて議論を呼んだ「テロにも戦争にも反対」という言い方に、ちょっと似ている。「テロ」と言っても、圧倒的に非対称な力関係のなかで、やむにやまれず行なわれる抵抗としての暴力ということもあるわけだから、それを米軍による戦争行為と並べて「反対」するのはおかしい、という批判があのときにはあった。
ぼくも、この批判には同意見だが、今回は、それとはちょっとケースが違う。同じく「圧倒的に非対称な力関係」のもとにあるとはいえ、ミサイルを発射したのは、他ならぬ「国家」だからだ。この圧倒的な力の差を冷静に認識することはとても重要だと思うが、やはり民衆のレジスタンスみたいなものと、国軍によるミサイルの発射とでは、同じには論じられないだろう。
また、冷戦の時代には、反原水爆の運動のなかで、「ソ連核兵器も(アメリカのものと)同様に悪か」みたいな論議が、ずっとあった。上記の「テロにも戦争にも反対」という言い方は、じつはその論議の名残のようにも思える。
それでいくと、アメリカの世界支配や、その協力者である日本の軍事的拡大に対抗している北朝鮮の軍事的行動も、その敵対者と同様に批判すべきなのかという、上記の共産党の主張とは対立するような左翼的な主張というものも、当然ありうるだろう。
だが、この二つ(アメリカと北朝鮮)の軍事的行動に、決定的な質的差異があるという考えを、とりあえずぼくは持たない。


要するに、アメリカや日米同盟の行為と、今回の北朝鮮の行為とを、「同列」に並べて批判するという態度は、正当であるように思える。
だが、そのような言明は、じつは重大な現実認識の誤りをもたらすものだと、ぼくは思う。
それは、こういうことだ。


ぼくが思うには、この場合、今回のミサイル発射と、「何が」同列なのかを、はっきりさせるべきなのだ。
今回の行動は、イラクで米軍が行っているような、ほんものの軍事的攻撃ではなく、実験であり、せいぜい「報復能力」を誇示するデモンストレーションだ。それが懸念されているような重大な環境破壊をもたらすかもしれないとしても、また航行中の船舶などに誤って命中する可能性がまったくないとはいえなかったにしても(あのとき、日本海海上には、万景峰号もいた)、はじめから殺傷や破壊を目的とした「攻撃」とは、明らかに異なる。
今回のミサイル発射と「同列」に並べるべきなのは、たとえば日米韓による大規模な軍事演習であり、韓国の梅香里の演習場や、小笠原諸島で行われてきた米軍による大規模な実弾訓練だ。
日米韓による大規模な演習は、敵対する北朝鮮に対する「威嚇」「デモンストレーション」の要素を持っている。これは、今回のミサイル発射と同様の点である。また、日常的におこなわれる実弾による訓練は、自然環境と人々の生活の場を、回復不能なまでに破壊する。


今回のミサイル発射は、このアメリカが日本の周辺で行い、それを日本のわれわれが黙認してすませてきた、日常的な、破壊的暴力の行使の構造のなかに、朝鮮という国家が本格的に参入してしまったという点でこそ、批判されるべきものだ。
つまり、今回の行動を「平和を脅かすもの」として批判するなら(その批判自体は、もちろん正当だが)、その同じ強さの批判を、(イラクなどでの軍事行動ではなく)われわれ自身が黙認している日米同盟の日常的な暴力の行使にこそ向けなくてはならない。


両者を同様(同列)に批判する、という言い方では、そこのところがぼけてしまい、われわれ自身の日常を構成している暴力性が、「彼ら」の暴力への批判のなかに隠されてしまう。
「彼ら」はたしかに危険極まりないが、それはせいぜいわれわれと同じ程度にである。
そして「彼ら」は、まだ「他国」に軍隊を送ったことはない。