きのうのブクマから

きのう書いた「レイシズムと暴力」というエントリーにも、結構ブックマークでコメントをいただいてたので、それについて書きます(こういうことを、慣習化するつもりはないけど)。


「ただこの語りだと『はいはい生の無条件の肯定テラワロス』でスルーされそうだなあとかおもった。」というのは、まあ、なるほどと。
たしかに、そういう点は、書いたあとで自分でも気になってた。調和的というか、目の前にある差異みたいなのを消去してる感じはあるかなあ、と。大きなところへくくってしまうみたいなね。そういう言い方は伝える力に欠けるのかもしれん。
麻生太郎天誅を加えれば解決する問題じゃなくて、幼稚園で、小学校で、レイシズムと暴力が培養されているんじゃないかと。」というコメントも、なるほど、そういうとこを見ないといかんのだろうなあ、と思いました。


でも、こないだの朝鮮学校の子どもに対する暴力事件の記事にしても、どちらも犯人が「中年の男」って書かれてたのが、やっぱり個人的には気になる(笑)。「中年の男が学校の周りをうろついてたら、まず通報」みたいになるのがね。
そういう形で、レッテルを貼られて、バッシングとか排除の対象とかは、恣意的にいくらでも都合よく変更されてしまうんだから、そういう構造のなかでパッ、パッと移行してしまう動きを助長するみたいな言説が、「反差別」や「平和」の名前のもとで流通するというのは、あんまりよくない感じがした。
そうなると構造の大枠を抑えろという政治学的な発想になって、「権力者、悪の根源説」みたいになりがちなんだけど。まあ、たしかに「悪い」とは思いますが。


ぼくがイメージする今の世の中というのは、弱い他人を攻撃してる人間が、明日には自分が攻撃の対象にされてるという構図で、その根本にあるのはレイシズムというか、人と人の間に生命に関して決定的な分断線を引いてしまうような思考だと思うけど、そういうもののなかに自分も他人も閉じ込められてるという現実が、なによりも耐え難い。


上のコメントのなかにあったように、そういうものが「培養」されてるんだとすると、それをどうしたらいいのか。「培養」されてるもの同士でなんとか出来んかなあ、とも思うんだけど、そういうのが「全肯定」というか、へんに抹香臭い感じかなあ。


でも、「スルー」されるというのは、ほんとに一番辛いかもねえ。本意でない部分に反応されるというのも困るときはあるけど、そこがインターネットの特性でもあって、内容に全然インパクトがなかったら、細部にも反応しないと思うんだよね。
だから、何かしら反応があるというのは、それだけで喜ぶべきことなんだろうけど、それさえもない時というのは、やっぱり厳しいですよね(笑)。