危機を待ち望む者

大新聞の力など、私は信じない。一つの新聞は、それを読む人々と、それを愛好する人々とを表現するものである。(アラン 『人間論』 原亨吉訳 )

韓国の大統領選や日本の総選挙の投票を目前にして、またぞろ朝鮮による「ミサイル」発射の話題が、マスコミを賑わせている。


今日の朝刊の紙面にも、毎度お馴染みの『「人工衛星」と称する』というような表現が繰り返されていたが、これがかりに、日本で言われているような「弾道ミサイル」の発射と捉えるべきものだとしたところで、実際にはどれほどの危険があるというのか。
メルトダウンした原発よりは、よほど危険性が低い気がする。また、排外主義者による暴力や、何より日本の極右化と軍備増強に比べたら、危険性はそれこそとるにたりまい。
「いや、これに核兵器が付いて飛んできたら」などと心配するなら、戦争が起きないような努力をこそするべきである。それとは真逆の方向に自国が走りつつあるのに、そちらはスルーして「ミサイル」発射による危機感だけを煽るのは、まったくとんでもない偏向報道、というより好戦的報道であることは間違いない。


だがそうは言っても、今回発射されようとしてるものが正真正銘「衛星」に他ならないのであるとしても、現状で日本の保守勢力(韓国のことは詳しく分からないから触れないが)やアメリカが、それをどういう風に利用するかという判断ぐらいは、朝鮮の側も出来そうなものだ。
このタイミングで、そんな「発射」を行えば、みすみす保守系なり極右なりの政権を、韓国や日本に誕生させる後押しになりかねないことは、分かっているであろう。
そういう感想が出てくるのも、無理からぬことだ。
これは、自国に敵対的な政権の誕生を期待しての行為ではないのか、という疑いが生じるのも自然だろう。
実際、これまでにも韓国での大きな選挙の直前には、ミサイルの発射など北側による軍事行動が報じられ、それが保守陣営に有利に働くのではないかと危惧されることが、しばしばあった。こうしたことから、南北双方の守旧的な権力層の間に、密かに共犯的な関係があるのではないか、といった憶測もされてきたものである(そしてこうした噂は、日本の右派政治家と朝鮮との間についてもある。)。


そうしたことの真偽は、僕には分からない。
だが考えてみると、一般論として、特に軍隊や軍事産業が大きな力を持っている国(日本もその一つだと思うが)では、対立している相手国に、より敵対的な政権が誕生した方が、自分たちの利益にとって好都合だと思っている人間が、存在していない方がおかしいのではないか。特に権力の中枢に近いところに、そういう人たちは少なからず居るであろう。
これは、共謀や共犯といったことでなくても、結果として両国の「敵対を欲する権力者たち」の間に、利害の一致のようなものが成立するということだ。
朝鮮民主主義人民共和国の権力構造が、いまどのようであるのか、僕に知るよしはないが、今回の「発射」の背景に、そのような事情があるという可能性は、確かに否定できないだろう。


だがそれ以上に、そうした推測は、むしろ日本の政治家・権力者についてこそ、よく当てはまるのである。
アジアの緊張状態を高めれば、経団連の一部の企業から疎まれる様なことはあるかもしれないが、その代わりに軍事的な産業や、海外の金融資本や投資家のお覚えはめでたくなるかもしれない。日本の右派・保守派の政治家の多くが、後者よりも前者の利益だけを重視するような愛国者であるとは、僕には到底信じられない。
隣国との対立や緊張状態が高まるほど、自分一個の利益につながると考えて行動する人間は、どこの国の権力層にも居ることは推測できるし、日本の場合には、その疑いはきわめて強まると、日本に住む僕には思える。


実際のところ、今回の「発射」をめぐる真相がどうであるかは分からない。
しかし、それに関わらず、敵対や緊張を高めることによって、自分たちの利益だけを確保しようとする権力者たちの(日本のマスコミ報道にうかがわれるような)扇動や操作に踊らされるのは、まったく愚かなことだ。
要は、どのような操作が行われたとしても、民衆・有権者が自国の国家権力に対して(また、世界的な資本の支配の体制に対しても)自立的な態度をとれているほど、その操作の効果は薄くなるはずである。
実際、上記のような、緊張を煽るような動きや報道に接したことによって、韓国の選挙で保守陣営に際立って優位な結果がもたらされたという分析を、少なくとも近年は聞いていない。
このことは、韓国社会における民主主義の成熟度を示していると、ひとまずは言えるだろう。
一方日本の場合どうかということは、非常に不安だと言うしかない。


しかし最も問題であるのは、「緊張」や戦争を欲しているのは、必ずしも権力者だけではない、ということである。
このことは、今の日本の場合、特に言えることだ。
「ミサイル」発射の報道によって煽られ、作り出される「緊張」は、まぎれもない政治的フィクションだが、それが現実の政治を動かすものとして機能してしまうのは、他ならぬ有権者・国民の多くが、そのフィクションを好み、「緊張」や戦争の到来を漠然と望んでいるからだろう。
戦争も排外主義も、政治的な欲望によって作り出され現実化されるドラマのようなものだが、日本のような議会政治の仕組みを持つ国においては有権者は、たんに観客であるのではなく、ステージの上の演技者であり、またむしろ政治家たちの身体を操って舞台を動かしている黒子の一人でもある。
最も重要な共犯関係が存在しているのは、国家が作り出す虚構に同一化したい我々自身と、戦争を引き起こしたい権力者たちとの間なのだ。
本当の安全や平和は、この共犯関係を我々が自ら断ち切らない限り、決して訪れるはずはないのである。