レイシズムと暴力

こちらの記事にあるように、朝鮮学校の生徒への嫌がらせについては、具体的な数字があげられはじめている。
http://d.hatena.ne.jp/lelele/20060712/1152666909
きのうも、北海道の朝鮮学校に2件の脅迫電話があったということを聞いたし、大阪の朝鮮高校にはミサイル発射の直後、右翼の街宣車が来たそうだ。
先日書いたような暴行事件だけではなく、在日の人たちに、ひどい恐怖心や圧迫を与える行為が繰り返されている。


こうした状況は、これまでも「北」のミサイル発射や、拉致事件の発覚に際して起きてきたものだが、もともと日常的にベースになるものが存在していることは、ネットの状況をみればたしかに分かりやすいだろう。
だがそれは、この記事に引かれている小林よしのりの発言にあるような、「漫画」や「ネット」だけに原因を見出してすむような問題ではない。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/731253.html


そもそも、漫画やインターネットで差別的な言説が横行するのは、根本的には社会全体が差別的だからであり、端的には、そういう人間たちが世の中を牛耳ってるからだ。たとえば麻生太郎のような人間が外務大臣をやってる政府の下で、サブカルチャーやインターネットだけを正そうとしても本当は無理なのだ。
小林の差別に反対する気持ちには、もちろん賛同するし、独特のマッチョ的な物言いにも、ここではあえて文句をつけないが、批判する対象が間違っている。まあ、当然といえば当然だが。


今起きているのは、ミサイル発射や拉致事件を口実に、社会のなかにある「特定の人たちを無条件に攻撃の対象にしたい」という欲望が、格好の対象を見出して噴出しているということだと思う。
この欲望を、じつはレイシズムというのだ。
政治は、レイシズムを助長したり温存したりし、政策遂行のために都合のいい対象を示して、そこに人々の欲望を動員する。暴力事件や脅迫電話は、その分かりやすい現われというだけで、本当に展開されている権力による「暴力」は、もっとはるかに巨大なものである。
差別的な行動や言動をおこなう「特定の」人間を非難するだけで、ことを済ませてはいけない。それではレイシズムの構造とその利用を無力化させることは出来ない。本当に非難されるべきなのは権力者であり、本当に問われるべきなのは、「差別」を語るわれわれ自身の内側にあるレイシズムのはずだ。