『愛と暴力の現代思想』

愛と暴力の現代思想

愛と暴力の現代思想

ピエール・クラストルは南米の未開社会の研究で、ある村の話をしているんですが、ある村では、女たちは、全員がいくつかの村の歌を覚えていて、家事をしながら全員で同じ歌を歌う。同じ歌を一緒に歌って子供に教えていくということが、村の共同性を作っているんですね。一方で、男はみんなで一緒に歌うんではなくて、ひとりひとりがバラバラに森に入っていって、人気のない森の奥で自分だけの歌を歌う。俺は強い、俺はよい、俺は美しい、という「俺の歌」を歌いあげる。その村の社会では、女たちは人間の共同性を再生産していて、男たちは人間の固有性、自律性を再生産しているわけです。(p54)


ドゥルーズの言葉が本書には何度も出てくるが、この本の二人の著者、矢部史郎と山の手緑は、ドゥルーズガタリの言葉を用いるなら、まさに二つの「機械」として、闘争しながら接続し、差異を生産することに成功している。本書は、そうして形成された一個の「機械」として、社会に、読む者に、さらに接続しているわけだ。


この本の内部における差異のあり方、言い換えれば闘争の形は、たとえば次のような一文において際立っている。

殴られた女から助けを求められたとき、セクシストは虚勢と言い訳を駆使して、判断を留保する。(中略)このとき、自らもまた女になりろばになり狂人になり、判断を示さなければならない。暴力の現場で、理屈と虚勢と冷静さを保持している奴がいたら、そいつが敵だ。(p17)

「理屈と虚勢と冷静さ」のなかに留まろうとする者は、マイナーなものに迫られ、脅かされることによって、闘争のなかへ、自分自身の存在のマイナー性、つまり裸の無価値性のなかへと否応なく突き出される。「否認」という仕方で、自己と「女」や「ろば」への暴力に加担するのでなければ。
他者のマイナー性によって触発された、自己自身の生のための思考と叫び、それがこの書物の言説のスタイルなのだ。
それは一般的な状況としては、次のような事態に関係しているだろう。

ところが現在は「労働者」の様態が大きく変わった。男でも女でも多くの若者があぶれ、臨時雇いの不条理の世界をうろついている。若者でなくとも、いま就いている仕事がいつまで続けられるかわからないという流動的な状況だ。ちょっとした小さな変動が人生を大きく狂わせてしまうような不安定さが露出している。ネグリが言うところの「労働者の女性化」というやつだ。(p73)


若者をはじめ、多くの労働者が、一様に社会的な安定した立場の喪失、つまり「理屈と虚勢と冷静さ」を保持しえない状況のなかへと投げ出されて、自分や他人の生を否定し「もの」へと貶めてしまう社会の秩序に同調するか、女やろばや狂人と共に怒りの声を発するか、という選択を迫られている。
本書の言説を可能にしているのは、声を発することを否応なく迫ってくる、「言葉」と「立場」をもたないものたちの怒りと悲鳴ではないかと思う。それらにさらされることによって、著者たちの思考は発動し、「機械」が生産されるのだ。
ここにあるのは、「論理」の形をとった悲鳴や怒号、そしてプロテクトであり、そしてサバイバルとしてのぎりぎりの思考の試みだといえる。


救命医療の現場における生き残れる者の選別の制度、「トリアージ」の問題を扱った論考の力強さは、その意味で、本書の白眉ともいえるものである。
生きるとはどういうことか、そして今貶められて否定されようとしているものは何であり、守るべきものは何なのか、その根源的な問いと叫びが、ここにはある。

識別のタグは、彼は生きる彼は死ぬということを、すべての視線にむけてもっとも見えやすい形で明示し、その予約された運命にたいする合意と承認を、見る者すべてに迫る。そしてトリアージが首尾よく実践されるということは、多くの動くことのできる被災者が、そのタグを剥がすことなく受け入れるということなのである。人間に貼り付けられたタグを剥がさずにいろというこの命令に、従うのか否か。タグが発揮するこの命令に、人間は屈服してよいものだろうか。
 生きるということは、死に抗い、死んだように生きることに抗う運動である。人間は、死んでいるか死んでいないかという次元で生を構想することはできない。死んでいないことが、生きているということでは、ない。(後略) (p228〜229)

とくに、矢部史郎のサバイバルへの悪戦苦闘は、彼が「階級闘争」における、男の決定的な立ち遅れを強烈に意識しているだけに、ぼくには印象深い。彼が、クラストルの上記のような言葉に触発されるのは、生を、そして生にかかわる限りでの生産を思考するしかない場所に追い込まれているからだといえる。
たとえば矢部が見出しているサバイバルの重要な根拠のひとつは、「資本」や「賃労働」に対抗するものとしての「再生産」ということである。

本当は、生産を担っているのは資本でも賃労働者でもなくて、そこから逸脱したり排除されたりした人間が、生産の大部分を担っている。(中略)すごく古典的な言い方だけれども、子供に関心をもちつづけること、人間に関心をもちつづけることが、資本主義を打倒する根拠になる、と考えています。(p51)


この点に関連して、矢部が「労働者の女性化」という現状分析を、「母親たち」のイメージに連結させている論考は、たいへん興味深い。

前世紀、労働からの脱出をはかる遠心力は女たちの大移動をもたらし、新しい知的な世代を大量に生み出し、いま若年労働者は、かつて母親がそうであったように労働からの遠心力につき動かされている。(p65)


クラストルが描いた未開社会の男のように、矢部は強い孤独に閉じこもることのなかでの、思考の固有性と自律性の「再生産」を、自己に課そうとする。「共感」ではなく、森の奥にひとりで入ること、孤独のなかでの思考こそが主張される。

領土を発見すること。自らを十分に閉ざすこと。(p173)


男にとってばかりでなく、このドゥルーズ的な戦略は、たしかに正しい。
付け加えるなら、男はなぜ森の奥に一人で踏み入るのだろうか。それは、「歌」や「思考」がそこに降ってくるから、つまり固有性や自立性を「再生産」するためである。ここでいわれている「再生産」とは、もちろん「差異」の「反復」のことだろう。
男のこの行動は、女たちの共同性の力強さによって強いられたものだともいえるが、それだけではない。ここでは男はむしろ、自分の根源にある「女」に同一化するために、森の奥へと向うのだ。この場所で「差異」が生み出されるのは、そのためではないだろうか。
男は森の奥で、「歌」や「思考」を身籠るために閉じこもるのである。彼の母親がそうしたように。