平澤報告会

米軍基地拡張のための住宅や学校の強制撤去と農地の強制収用が行われた韓国の平澤に、最近行ってきた若い友人がいて、その報告の会が日曜日に大阪市内で行われたので、話を聞いてきた。


はじめに、報告そのものについてだが、こんなところで身内の人を誉めるのは気がひけるが、とてもよかったと思う。
なにがよかったかというと、落ち着いて話をしていて分かりやすかったというふうなことだけではなくて、場の性格というか、聞いている人たちのことをよく考えて、いい意味で挑発的に話をしたということである。一口に言えば、聞き手に対する愛情を感じる発表だった、ということだ。


問題になっているテチュリという地域は、閉鎖されている状態で、基本的に住民以外は入れないのだそうである。ぼくの友人は、その閉鎖されている村に、なかに居る人から連絡をもらい行き方を教えてもらって入ることができた。
それでも、バスに乗っていると検問のために警察が入ってきて、あやうく見つかりそうになるなど、たいへん緊張する場面があったらしい。
ちょうど、彼が行った日の前日にも4千人以上の軍隊が農地を取り上げるために入ってきて、住民との間で衝突があったそうだ。そういう衝突や緊張が日常的にあるなかで、数多くの住民が、頑張ってそこに生活しているのだそうである。
連日の集会の他、さまざまなアートや運動会も行われているという。
日本からの訪問者は、閉鎖されて以後は少なくなったが、沖縄から来る人は多いのだとのこと。近年、沖縄と韓国の反基地運動というのは、連帯が強まっているので、なるほどと思う話である。日本「本土」とは、やはり意識の違いが大きいということだろう。


ただ、韓国内において、この平澤での基地拡張反対のたたかいというのは、あまり一般の支持を集めているとはいえない。世論調査では、8割が基地拡張に賛成しているそうである。その大きな理由は、この拡張計画が、在韓米軍の再編成の一環であって、その再編成によって在韓米軍の兵力は3分の2に削減され、基地全体の面積も3分の1に削減されるということである。つまり、平澤の基地が拡張されることによって、在韓米軍全体は大きく規模が縮小されるのだ。
もちろん、この再編成は、在日米軍の場合と同様に、米軍のグローバルな展開に対応できるようにするために行われるものである。また、ソウル市内にある基地を平澤に移すということは、「北」との間で戦争になった場合、その砲弾やミサイルが届かないところまで下がることによって米兵の被害を少なくしようという意図もある。
また、今回知って印象的だったのは、03年に、基地に経済的に依存している地元の住民たちが、拡張反対のデモ隊に暴力行為を行うという事件があったという話である。つまり、住民が住民に暴力を加えるという事態が、ここではすでに起こっていたわけである。


このあと、最近出版された権仁淑の『韓国の軍事文化とジェンダー』(山下英愛訳 お茶の水書房)という本や、『韓国女性人権運動史』(韓国女性ホットライン連合編・山下英愛訳 明石書店)という本などに材をとって、報告者からたいへん鋭い問題提起がなされたのだが、ここではそれにはふれない。
ただ、この日はそれに先立って沖縄の基地のことや、本州の自衛隊の基地のことなども話題に出ていたので、それらをとおして漠然と思ったことを書いておく。


基地のことについて考えるとき、たとえばぼくの住む町には基地がないので、「もしこの日常に基地が在ったら」というふうに考える。そこでたとえば、「とても想像できない」というふうに想像したりするわけである。そして、それがもとになって、基地のある場所に行って体験しようとしたりする。
これは、自分が生きている日常のリアリティーから出発して基地の問題、基地がある場所に生きる他者の生活とか、自然環境のこととかを考えるということで、たいへん大事なことだと思う。
ただ、それが「基地」についてのすべてではない。
基地の本質のひとつは、それが戦争に使われるということだ。それが存在する限り、戦争によって殺される人間(他人)が必ずいるということである。だからこそ基地はあるべきではない、ということは押さえておくべきだと思う。
なぜこんなことを書くかというと、最近、基地のことに限らず、いろんな運動において「日常のリアリティー」とか「生活の実感」といったことが強調されすぎではないかと思うからだ。
「日常のリアリティー」から発想した場合、それだけでは、自分(たち)の生活を守るという考えの枠から外に出られない。


実際に基地のある土地の人たちのことについては、ぼくにはなんともいえない。
ただ、ぼくたちがそういう土地の人たちのことを「想像する」というときに、生活している自分の同一性のようなものを疑わないというのは、やはりまずいと思う。
自分の生活と、他人の生命とが背反するという状況が、この世界ではやはりありうると考えるべきではないだろうか。
そのうえで、どうするか。


映画『マリーンズ・ゴー・ホーム』のなかで、平良夏芽さんが、沖縄の基地から出撃した米軍機がイラクで人々を殺しているということを語っておられた痛切な表情が、強く印象に残っている。
あそこには、「実感」ということを越えた何かが、あるのではないかと思う。