運動とか人文系の知とか

猿虎日記 - 日本のデモ

というわけで、まどろっこしい書き方になってしまったが、つまり、いい悪いは別として、デモの絶滅、という問題は、デモに行く人々の問題であるというよりデモに行かない人々の問題ではないか、そして、デモに行かせる人々(動員する運動、団体etc.)の問題であるというよりは*4、<デモに行かせない人々(政府、メディア、知識人etc.)の問題ではないか、と思うのである。

このエントリーを読んでの、ぼくの感想は、ブックマークにも書いたように「自戒」ということです。
というのは、ぼくも今年に入ってから特に「運動」関連のエントリーを多く書いてるんですが、「デモに行く人々」や特に「デモに行かせる人々」に文句を言うような形になることがしばしばあったと思うからです。
たとえば運動関係のMLとかでそういうことを議論したりするなら分かるけど、ここでの「運動」批判みたいなのは、ほとんど非当事者的に書けるので、書きやすいということがある。
だから、そういうことを書いてる自分に、後ろめたさがあって、sarutoraさんのエントリーを読んだときに、そこをつかれた気がした。
「運動」についての認識は、上記の引用文に基本的には同感です。どれほど「運動」に偏りやこわばりがあったとしても、その周囲の圧倒的多数の社会の方が抱える問題や歪みを考えないですむ理由にはならないし、ぼくとしてはそちらをこそ考え、批判していく役割が自分にあると思う。それをしないで、批判しやすい方ばかりを叩くことになりがちであった。
だから、「自戒」。


ただし、「デモに行かない人々」とひと括りにはできないと思う。ここが、ものすごく微妙で大事。
少なくとも、ぼく自身は最近まったくデモに行ってないので、そういう自分自身とそうさせる条件みたいなものは問題であると思うけど、他人の事情や内面までは分からない。
kmizusawaさんがお書きになってることは、そこに関わっていると思う。

kmizusawaの日記 - 「理解」するのも「興味を持つ」のも「参加」するのもヒマ人の娯楽


ヒマ人がヒマ人の言葉で何を言ってもヒマじゃない人には届かないのではないだろうか。ほんとに興味を持ってほしい、参加してほしいと思うのなら、ヒマじゃない人に理解や参加を求めるよりもヒマ人のほうが彼らの忙しさを緩和軽減する努力をしたり手を貸したりすべきだと思う。

「運動」についても、「学問」や「啓蒙」に携わる人たちについても、その本当の役割が、ここで言われているような「努力」にあることは、論を待たないと思う。
これは、「ヒマ」であること、人文的な学問はその有用性の無さこそが社会的抵抗の根拠となるといった、反ネオリベ的な主張とは別の問題。
ネオリベに対抗するんだったら、家事労働とか山菜摘みとか草野球とか空き缶集めが抵抗の根拠になってもいいわけで、こういうときに「本」とか人文系の学問が特権視される理由はない。
これは以前、『ネオリベ現代生活批判序説』という本を読んだときに、ひっかかってた点。あの本では、人文的な教養が持つ「抵抗」の拠点としての価値の再発見ということと、抵抗や闘争の「当事者」として自分(人文系の研究者)を見出すということとが、無批判に重なってしまってたところがあると思う。でも、「知」の権力を体現してきたものとしては、そこで終わってはいけないだろう。こういう人文科学にとって厳しい時代だからこそ、自分たちがこれまで資本主義の社会のなかで得てきた特権性に、もっと批判の目を向けるべきじゃないのか。「当事者」になったからそこをスキップしていいというのなら、今までどういうつもりでマイノリティの社会運動とかを批判してきたのか?
ぼくはむしろ、そういう人文系の知の特権的な位置(そこで働いてる人や学生の、雇用などにおける厳しい状況は大問題だと思うけど)と、ネオリベ的というのか資本主義の今の動向とが同根的である可能性を自問すべきだと思う。
それができる人を「知識人」と呼ぶんじゃないか(当事者性から出発して、それを乗り越える、ってこと。)。


「運動」のことと「プチ文盲」ということを、どこまで重ねて考えていいか難しいけど、現状では多くの人が「ヒマ」も「体力」もないという状態に追い込まれてることは事実であって、その社会的な条件を変えることこそ大事だというのはその通りだけど、必ずしも忙しすぎるから運動や読書に気持ちが向わない、というわけではない、とも思う。
多くの場合、運動してる人はみんな多忙。むしろ、それがよくない場合も多い。


問題は、現在の社会では「本を読まないこと」や「運動に無関心であること」が、「そうあるべき」というプレッシャーになっていること。運動に関しては、あきらかにそうなっていると思う(本の場合は、なにか根本的な変容が関係してる可能性もあるので、難しいけど)。
だから、「運動」も、「読書」や「学問」も、自己解放としてあるべきだ、というのは正論。人に押し付けられたり啓蒙されるべきものではない。つまり、権力的であってはいけない。
つまり、本を読むことや運動することが、「見えないプレッシャー」からの解放の表現ととらえられるようになればいいんだけど、現状ではそうなってない面があるということだろう。自己解放への道を示唆する、ということならいいんだけど、なかなかそこで収まらないことが多い。
kmizusawaさんがお書きになってる、「分かる」ことを強要されてきた、というのはそういうことでしょう。そのへんの自覚が、啓蒙する側にどれだけあるか。


sarutoraさんが


猿虎日記 - 勉強とヒマとデモ


で、お書きになっているように、政治というのは(そして学問も)『誰が考えてもおかしいという「直感」や「感性」や「常識」』からしか出てこないものだという視点は、もっとも重要。いや、「運動」や政治に限らず、そういう原点が抑圧されるような社会は、端的に間違ってる。
これは、学問や読書自体も、本来はそういう原点から出てきた素朴な「解放」(遊び)であるはずだけに、なおさら重要。


だけどそこは、やっぱり分かってる人も運動のなかにいるわけで、そういう人は「いったり来たり」の感覚を持っている。つまり悩みながら、壁のあちらとこちらを行きつ戻りつしてるはず(別の「壁」のなかに入っちゃう危険もあるけど)。
むしろ、運動に属してない、一般の社会に居るぼくたちの側が、自分のなかに壁を作ってないか、それを考えるほうが「解放」への近道であり、本道だと思う。
ネオリベ」や「右傾化」が続こうが続くまいが、基本的なことが分かってない「運動」や「教養」は、いずれ勝手になくなっていくし、残ったとしても(悪い意味で)役に立たないものだから、結局は「これはおかしい」と思った人がそれぞれの日常の現場(「運動」も「読書」もしてなくても)で自前で変えていくしかないんだと思う。
デモも読書も、その有効な方法のひとつではありうる。