kmizusawaさんのこと

楠絶えず風生む母の日なりけり


                                今村俊三


この句をエントリーの冒頭にもってくるのは二度目だが、毎年この時期になるとかならず思い出す。好きな句なのである。


さて、ご存知の方が多いと思うが、『kmizusawaの日記』さんが更新を停止されるとのことである。


運営者のkmizusawaさんには、ぼくはこのブログをやっていく上で、ひとかたならずお世話になったと感じている。たいへん多くの記事をブックマークをしてくださり、そこに的確なコメントもいただくことが多かった。それがいつも、たいへん励みになった。この方がいなかったら、自分はここまでブログを続けてこれなかっただろう、と思う人の一人である。
心から感謝の言葉を言いたい。
それだけに、今回の突然の知らせには、驚きもし、心配もし、たいへん寂しい気持ちである。


また、ぼくが言うまでもないことだが、『kmizusawaの日記』は、多くの人に愛されてきた非常に優れたブログである。最近は、ぼく自身も気持ちの余裕がなかったりして、じっくり記事を読むことがあまり出来なかったのだが、ともかく、自分にはとても出来ないことを果敢に続けている人であると思い、お世辞でなく、いつも尊敬の気持ちをもってサイトを見ていたものである。
比べるのも僭越だが、ぼくとkmizusawaさんとでは、関心をもつことや見方が、微妙に似ているときもあるのだが、自分の生活の実感から文章をつづる迫力みたいなものが、kmizusawaさんにはあり、それはぼくにはないもので、そしてそうした部分に多くの人たちはひきつけられて、あのブログを読んできたのだと思う。
そういう率直なスタンスを貫いてきただけに、疲弊すること、傷つくことも多かったのではないかと推察する。


更新停止の挨拶を記したエントリーには、こういうことも書いてある。

また、表面的には個別のエントリ内容への批判の形で、事実ではないことや勝手に思い込まれた意図を前提に、まったく関係ないところに政治的スタンスを持ち出されたり人間的な信用を貶められるような道徳的な批判を何度もなされることにうんざりしたというのもあります。


正直、kmizusawaさんのような活発な活動というか、コメントやトラックバックを多くやり取りするような立場にはなったことがないので、そこで受けるプレッシャーやダメージがどういうものか、本当には分からない。
ただ、はるかに規模の小さなものながら、ぼくも公開で記事を書いてきたわけだから、その辛さや葛藤が、少しは想像がつく。だから、とりあえず今は休んで、自分に無理のないやり方でやりたいことを続けてほしい、ということしか言えない(「ローカルで書く」ということが、どういうことなのか、ぼくは知らないので)。
しかし、「また元気になったら戻ってきて」ということも気軽に言いにくいのが、今のネットの現状ではある。


このブログも例外ではないが、このところとくにブログのコメント欄をめぐるトラブルめいた話題を目にすることが多いように思う。そればかりが原因ではないだろうが、はてなでも「プライベートモード」になったり、閉じてしまったブログがいくつもあり、それらのなかには、ぼくが愛読してきたサイトが少なくない。
明らかに、公開でのブログの運営は、これまで以上に難しくなってきてると言えそうだ。
その理由は、ここでは詮索しないが、ひとつ思うのは、もともとインターネットのブログというのは、「安全さ」や「公平さ」が成り立つはずのないところに、無理やりそういうものを仮構して作られている空間だということである。
簡単にいえば、ぼくたちがこうやって書いたり読んだりしている、この場所全体が、設えられた借り物なのだ。
もちろん、みんなそれを承知の上で、そういう空間が必要だ、貸して欲しいと言って借り、そして使ってきたわけである。
だが、その場所が、個人にとって「安全」であり、「公平」であるということは、本当は「お約束」でしかないわけだから、そこでひどく傷つく人が出てきたときに、ブログを含むインターネットのシステムは、それを本当には守ってくれはしない。
つまり、この空間では、ブログの書き手である一人の人は、本当は何者にも守られていない、たいへん脆弱な立場である。
だから、ある人がこの場所に留まり続けること、そこで一つのスタンスを貫きつづけることに、こだわる必要はまったくない。
退きたいときには退き、戻りたいときには戻り、この空間のもっともらしい仕組みを真に受けないようにして、自分を守りながらやっていくことが大事だと思うのである。


まあとにかく、ぼくはまたkmizusawaさんのあの独特の語り口を、どこかで目にすることを楽しみにしているわけだが。