李静和『求めの政治学』

私は要約はきらいなの。要約してはいけないと思う。「九・一一」とか「テロ」とかいう言葉で、すべてが要約されてしまう。これだけはちょっと許せないというか、だめなんです、私の場合には。(本書p113)


求めの政治学―言葉・這い舞う島

求めの政治学―言葉・這い舞う島


『つぶやきの政治思想』の著者、李静和による対談、インタビューと詩を収めた本。
ぼくは、この著者についてくわしいことを知らないのだが、韓国済州島の出身で、日本語が母語ではないらしい。しかし(というべきか)、いまもっとも優れた日本語の文章を書く人のひとりだと思う。


冒頭に引用した言葉についてだが、ぼくがここに書く本の紹介や感想は、たいてい要約である。要約が下手なので、いつもすごく長いわかりにくい文章になるわけだが、要約することによってその本を情報のかたまりとして切り分けて整理し、自分の理解の枠組みのなかにおさめて(つまり「征服」し)、さらに他の人たちにそれを誇示しつつ流通させようという欲望があることはたしかだ。
本がほんとうに好きな人には分かるだろうが、そうすることによって、つまり要は書物をたんなる情報のかたまりとして取り扱うことによって、確実に死んでしまうその書物の生命みたいなものがあるのだ。要約は、生命としての本を殺す。
たとえばベンヤミンは、そのことに非常に敏感な批評家だったと思う。
李静和の書物の言葉は、田中小実昌の作品の言葉などとならんで、ぼくが知る限りでもっとも強く「要約されること」に抗う性質をもった日本語文である。
そのことを書いたうえで、以下のぼくの文章はやはりいくぶんかは、この本の要約であらざるをえないだろう。


二つ収められている対談の対話者は鵜飼哲である。はじめの対談は、思想的・文学的でやや難解であり、ふたつめのものは韓国と日本における「近代」というものの対比と関わり、そして朝鮮半島と東アジアの状況をめぐるきわめて政治的・歴史的な問題を扱っている。
また岡本厚によるインタビューでは、「難民」という現在的なテーマをとおしてやや平易に話者の思想が語られている。
本全体を読んで、とくに印象的だったことがらをいくつかあげておく。


ひとつは、「先進国」の人々の想像力の貧困ではなく、むしろ想像力の過剰が、生の「現場」(そこには「先進国」の外側の現実を含む)からの人々の断絶をもたらしているのだ、という指摘。
この指摘は、李静和による「想像力の条件と限界」というテーマについての語りのなかで出てくる。

これは、よく言われている先進国と第三世界の人間が会ったときに、対話は成り立たないということに大きな関係がある。なぜかというと、先進国の人間は――大体、情報とか知識があふれるという言葉を私は使いたくないの――少なくとも、とてつもない想像力の世界でばっと飛んでいく何かが既に習慣になっているの。私を含めた第三世界の人から見れば、自分の身体がまず傷んでくるから、あの想像力についていけない。(p21)


ぼくは、この「想像力」という言葉は、抽象力とか、あるいはイメージや映像という言葉、それから情報という言葉などに関係してるとかんがえるが、はっきりはいえない。
しかし、言われていることはなんとなくはわかる。
これは「想像力」にその条件に応じたいくつかの種類があるということではなく、世界には「想像力」をわれわれのようには発揮しえない人たちが居ることを、われわれは容易に想像できない、ということにポイントがあるんじゃないかと思う。言い換えると、われわれは「想像力」というものを自明(自然)のものとみなして過信しているのではないか。


それに関連して、『「マイノリティ」=サバルタンこそ個だ』(p41)という考えが、李静和の思想のいちばん重要なポイントとして引き出されてくる。
つまり、「マジョリティ」的な位置にある者は比較的容易に想像力を発揮して普遍性の場のなかで世界を把握することができるが、切迫した生の「現場」を生きる人たちにとっては、そうした他者との「場の共有」自体が困難、というよりほとんど不可能であるということ。
したがって、「マイノリティ」「サバルタン」とは決して集団ではありえない、個でしかありえないものだ、ということになる。

要するに、構造から構造をすくいとるのじゃなくて、個なるものから個をすくいとるという方法がなければ。自分の傷を、あからさまにその生傷をとりだすことでしか、『つぶやきの政治思想』のなかでの祈りはありえない。(p41)


ここはたしかに最大のポイントだろうと思うが、これ以上、このことについて語ることが、ぼくにはできない。
ただこのことは、特に本書の後半で示されるいくつかの具体的な提言につながっていると思う。
そのひとつは、「リメモリー(再記憶)作業」ということである。移民の国であるアメリカに関して、そして韓国から日本にやってきた自身のことにふれながら、李静和はこう語る。

和解するための、あるいは歴史教科書の取り組みのためのリメモリーではなくて、国民になるために忘却された、そういう忘却を逆に全部リメモリーする。再教育に入って、初めて自分が移民であった記憶、難民であった記憶、自分の国内でさえ自分は外国人であったこと、他者であった記憶が全部生まれてくる。そこで初めて個別性、個人が生まれてくる。(p116〜117)


また、こうも言われている。

この作業は、実は記憶したくない人々、いままで私たちが戦争の記憶とか植民地の記憶について、日本について言ってきたような、あえて言いたくない過去のことを言おうとする、あるいは記憶するということと同じなんです。それがあったからこそ逆に、さっきの遠くに離れているように思われているアフガニスタンのことも、実は近いところにあるのだということが自然につながってくる。そこでつながらない限りは、だって実は遠いんだもの。無理やりつくると自分が苦しくなる。(p117)


このような作業をとおしてのみ、われわれの日常が、物理的・時間的に離れている出来事とつながっていることが本当にわかるようになるのだと、李静和は言うのである。
これは、国家や集団から、「アイデンティティのポリティーク」以前の「個」の生の次元へと記憶を取り戻すことによって、世界との「自然な」(身体的な)連続性の実感を日常のなかに取り戻そうとする試みといえるだろうが、もちろんそれも「要約」にほかならない。


またサバルタンということに関していうと、李静和はこの本で「内なるサバルタン」という非常に興味深い、しかしやや掴みにくい考えを提示している。
それは、(ここでは日本において)サバルタンの存在に気づいた多くの「すばらしいメンバーたち」が、サバルタンの問題に関わるうちに、自分自身のなかに「内なるサバルタン」をつくり出しつつあることへの危惧である。
李静和は、こう語る。

お互いに通じないんだ、わからないんだというね。つまり人工的につくり出したサバルタンの空間、領域が既にあるわけ。伝わらない、届かない、至らない、語れない、こういうのがある。(p31)

メッセージがないとか、届かないとか、至らないとか、いつの間にか周りに全部そんなことを言っている。だからといって商品とか、消費とか、資本主義とか、ああいう言葉は使いたくないの。具体的な感情のレベルで語りたいから。しかしこのいらだちは何ですかね。この怒りというか。(p38)


これは、サバルタンの存在に人々が気づくようになった、90年代以後の日本において、人々のなかに「内なるサバルタン」がつくり出されてしまい、『自分の語れない部分に対するいらだち』が膨らみだしたという事態への、危惧の表明であるらしい。
すごく大事な指摘なんだと思うが、ぼくには正確につかめないので、これ以上は書かないでおく。


他にも大事なこと、考えさせられることがたくさん書いてあるのだが、これ以上書くとだんだん要約に近づいてしまうので、ここまでにする。