「海峡を越えた問いかけ・韓国ハンセン病患者の90年」

土曜日の夜に、ETV特集で標題の番組が放送された。
http://tv.yahoo.co.jp/bin/search?id=46009442&area=osaka


じつは最初の30分ぐらいを見逃したのだが、すごくいい番組だと思ったので、感想を少し書いておく。


韓国のソロクトという島(「ト」というのは「島」の意味)に、日本の植民地だった時代にハンセン病患者の隔離施設が朝鮮総督府によって作られ、一時は6千人以上の人たちが収容されてたらしい。鞭を使って強制労働をさせられたり(これに近いことは、日本国内の同様の施設でもあったそうだ)、やはり神社への強制参拝(ちなみに、患者にはクリスチャンが多かった)、患者同士で結婚する際などには子孫を作らせないために「断種」手術がおこなわれたりしていた(結婚の際の「断種」は、韓国独立後もおこなわれたが、当時は懲罰的な意味の断種手術もあったようだ)。
そもそも、「隔離」そのものが誤りであることを別にしても、狭い場所のひとつの施設に6千人もの人を押し込むということが、考えられない話だと、専門家も言っていた。
この番組であつかわれていたのは、このソロクトの施設に当時収容されていた人たちの補償の現状である。
ゲストの藤野豊さんも言っていたが、この問題はハンセン患者に対する誤ったひどい医療、政策への補償ということと、植民地支配に対する補償ということとの、二つの要素があるのだろう。


日本が戦争に負けると、ソロクトに隔離されていた患者たちの多くが、施設から出て外で生きるようになった。この頃、施設をあらたに運営することになった韓国の人たちと、患者たちとのあいだでトラブルが発生し、患者たちが虐殺されるという事件がおきたようだが、真相はまだはっきりわかってないらしい(このことに限らず、4・3事件や朝鮮戦争にいたるあの時代のことについては、最近韓国でやっと真相の究明がおこなわれだしたばかりだ。)。
そういうこともあり、多くの人が施設を出て外の世界で生きるようになったのだが、そのひとたちは最初仲間で集まって物乞いなどをして生き延びていた。朝鮮戦争の頃か米兵からトウモロコシの粉をもらって食いつないだこともあったそうだ。
それがある頃から、自分たちで家を建て、村のようなものを作り、農耕をしたり養豚をしたりして生きるようになった。つまり、物乞いでなく、コミュニティーを作って、自分たちで生産し生計を立てるようになったのだ。
その後、パク・チョンヒの軍事政権の時代になってから、アメリカで特効薬のようなものが発明されたこともあり、ハンセン病患者に対する隔離政策が正式にあらためられることになった。この政策の変更はなんと、日本よりも30年以上も前に行なわれたことだという。日本のハンセン病患者に対する政策というのが、いかに特異なひどいものだったか、ここから分かると思う。
それで、韓国ではその後、ハンセン病患者たちに村を作らせて、自分たちで農業をやってもらい、自活してもらうという政策をとって、一定の成果を収めてきたらしいのだが、こうした政策が発案され実行に移すことができたのは、上記のようにもともと患者たちが自分たちで独自に村を作って自活して暮らすということをやってたからだろう。
このことは、社会全体に、そういうことを可能にする性質のようなものが、韓国のあの時代にはあった、ということを示しているのではないか。これが、日本と異なる、もうひとつの大きな点である気がする。


韓国の伝統的な民衆劇みたいなのを見てると、ハンセン病患者の人が役柄として出てきて、村人と普通に混じりあっている姿がよく描かれている。
日本でも、近代以前には、そういうことがあったのかもしれないが、近代化があまりにも強烈に行なわれたということなのか、それとも近代化のやり方に特殊な問題があったからか、ともかく「隔離の思想」というものがごく最近まで生きていて(いや、今も生きてるのか)、この行政の思想が社会のすみずみにまで浸透して、ハンセン病患者の人たちが施設の外部に村を作って自活する、というふうな余地はどこにもない社会になってしまった、ということだと思う。
日本の植民地支配のもとで「近代化」を経験したとはいっても、そしてその影響が社会のいろいろなところに強く残っているとはいっても、ハンセン病患者の人たちが社会のなかで生きるという前近代からの連続した空気のようなものは、とくに戦後の混乱期の韓国社会には、まだ残っていたということではないか、と思う。
軍事政権で開発と経済成長が続き、ほんとうに近代化された社会になると、こうした要素も、どんどんそぎ落とされていったのだと思うが、それでもそういう潜在的なものは、あの国の社会にはやはりあるような気がする。


とにかく、そうやって施設の外でハンセン病患者が生きるということは、日本よりもずっと早く韓国では当たり前になったわけだが、やはり、それに対する周囲の差別というものは今でも強いらしい。
それと、ソロクトの施設自体は今でもあって、診断で「陽性」とされた人たちは、そこに戻って暮らすことになった。上にも書いたように、戦後も患者同士が結婚する場合は、子どもを作らせないように、男性には断種手術が行なわれた。
しかし、番組に登場したある夫婦は、治療者たちをいつわって、ひそかに子どもをつくり、育てることができた。その子どもは、いま三十代になっていて、別の町で暮らしているが、お正月などにはソロクトの施設で暮らす両親に挨拶にやってくるそうだ。
そのお母さんは、子どもをもつことができなかった他の入園者に比べたら私たちは幸せだと言っていたが、本当は一緒に暮らしたいだろうと思う。


植民地時代にソロクトに入れられていた人たちに対する日本政府の補償は、複雑な経緯を経た後に、いま日本の厚生労働省の認定を受ければ、患者に補償が支払われるということになったらしい。
ところが、戦争に負けて日本人がその施設を去るときに引継ぎが行なわれなかったなどの事情があり、まだほとんどの人が補償を受けられずにいる。申請しても認定してもらえず、すでに死んでしまった人も出ている。
引継ぎをちゃんとしなかったというのは、支配してひどい政策をやってた日本の側の責任だろう。証明するための複雑な書類とか、ややこしい条件をつけずに、すでに年老いた多くの患者たちを早く認定して、補償していくべきだと思う。