「剥ぎ族」を考える

こちらのサイトでは、フランスでのデモやストの状況を知ることができる。

http://diary.nttdata.co.jp/diary2006/03/20060328.html

http://diary.nttdata.co.jp/diary2006/04/20060404.html


この上の方の記事だが、「壊し族」とか「剥ぎ族」と呼ばれる、デモに便乗して破壊や盗み、集団暴力などの行為を働く人たちのことが大きな問題であると書かれている。
記事を読むと、その被害は深刻なようで、デモを主催したり参加している人たちも頭を悩ませているらしい。ひとつには、デモの参加者がひどい被害にあったりしているため、これでは老人や学生などは行動に参加できなくなる、ということである。
その行動はデモの拡大や展開を阻害するだろうということと、警察がこの連中を取り締まらず、デモに積極的に参加している学生とかだけを起訴したりしていることから、「壊し族」「剥ぎ族」と呼ばれる人たちの行為が警察に操られたものではないか、という説も出ているらしい。


こういう説が流れるというのは、それなりの根拠があるのかもしれんけど、ちょっとひっかかるところがある。
たしかに警察による「ヤラセ」みたいなことがあって不思議ではないが、多くは、「ほっといた方がデモが分裂して自滅するだろうから、わざと取り締まらずにおこう」という程度の警察の魂胆じゃないだろうか。
今回のデモの原因のひとつは、若者の不満や怒りの爆発ということだろうから、その不満を爆発させてるなかに、そういう「けしからん」者たちが混じってたって別段不思議はないのである。
嫌な感じがするのは、そういう行動をとる者たちを、まともなデモや抗議行動に参加してる人たちから区分して、運動を弱体化させる危険分子として片付けたり、あげくは「警察の犬」呼ばわりするという発想である。


記事を読む限りでは、「壊し族」や「剥ぎ族」がやってることは、どう考えても擁護も正当化もできるものではない。
これが許されるのなら、野宿者に対する「襲撃」もかまわないという話になるだろう。
しかし、気になるのは、この連中がやっていることと、デモや抗議行動で行使される暴力や実力(自衛隊みたいだが)の行使を、まったく異質なことと考えてしまうような発想がデモを主催したり行ってる側にあるのではないか、ということだ。
どんな正当な理由があっても、暴力は暴力、破壊は破壊だ。抗議行動のなかで行使される暴力がいけないということではなくて、自分たちが行使している(する可能性のある)暴力についての、そういう自覚がなくなったら、運動も革命もたいへんヤバイものになる、ということだ。


じっさい、どんな革命も現場ではひどい無秩序な暴力が行使されるものだろうが、最終的にはそれが権力を握った者によって、「正義」と「不正義」に分けられて整理されていくのだろう。「正義」と見なされた者の暴力(闘争)は、その暴力性の罪を問われないことになる。ならず者と裏切り者が切捨てられて、革命の闘士だけが語り継がれるのである。
そういう意味で、自分たちの行動から、「壊し族」「剥ぎ族」の暴力や破壊を当たり前のように切り離して、それを「裏切り者」とか「敵」の側に追いやってすませるような考えは、よくないと思う。


さすがにそのへんは、フランスの人たちは、よく分かってるとは思うが。
「壊し族」「剥ぎ族」が行なっている暴力と同じ粗暴さを、自分たちの怒りや不満や「正義」がはらんでいること、そのことを引き受けたうえで行使される抗議の行動や「抵抗の暴力」でなければ、それは簡単に権力の論理のなかにとりこまれてしまうだろう。