補足二点

今日アップした二つのエントリーについて、一点ずつ補足します。
まず、こちらの「剥ぎ族」のことについて。


ぼくが思うのは、これからフランスだけでなくて、世界中でこういう「反ネオリベ」的な実力行動が起きてくる可能性があるけど、そのときに、こういう「剥ぎ族」「壊し族」的な行動をとる人というのはたくさん出現するんじゃないか、ということです。
いままでもあっただろうけど、もっとたくさん、無視できないほど出てくるんじゃないか。それは「左翼」がほんとうに力をもってた時代とはやっぱり違ってて、理念で人を引き寄せて団結させるということが難しくなってるし、それに暴力の質のようなものも、やはり昔とは違ってるだろうから、そういうことが生じやすいだろうと思います。
そのときに、それに「逸脱」とか「警察に操作されてる」というようなレッテルを貼って、自分たちと無関係なものとしてしまって済ませる、そういう態度をデモをしてる人たちがとるのはよくないだろう。
そこには、自分たちの怒りや不満と通じる要素がどこかあるはずで、だからそういう人たちがなぜ抗議行動に参加せずに、暴力行為や盗みのほうに走るのかという反省を、デモを主催したりする人たちの側がもたないと、こうした政治行動は本当に力を持つことはできないんじゃないか。
そういうことが言いたかったのでした。


それから、こっちの「当事者主権」の話なんですけど、最後に「コミュニケーション能力」を習得したり育てることについて書かれた文章を引用したんですが、それに関しておもうのは、だいたいコミュニケーション能力というか、相手のコードにあわせる努力というのは、社会のなかで立場の弱い方が身につけることを強いられてきた、ということです。


たとえば、恋愛も結婚もできない男が増えてるとよく言われるけど、これにはいろんな側面があるとおもうけど、ひとつには男の方はコミュニケーション能力を磨かなくていいような特権的な位置にずっといたということがある。その位置を手放すぐらいなら、ずっと一人でいたほうがいい、というような気持ちが、自分にもあります。
女性の側というのは、コミュニケーション能力というか、男が要求するコードに自分を合わせるということを、小さいときからずっと強いられてきてる。それを拒絶すると、結婚するチャンスが減って、女性のほうが就職も難しいわけだから、経済的な状況も非常に苦しいところに段々追いこまれていく。これは、たしかにすごくひどいことだと思う。


それから、別の例をあげると、帝国主義の時代から、圧迫されたり国を奪われたりした国民(ネーション)は、言語の習得能力に長けているといわれてきた。これは東アジアだったら朝鮮人がずっとそういわれてきたし、ヨーロッパではジョイスを生んだアイルランド人とか、コンラッドがいるポーランド人とかが、そう言われてきました。
それは、多くの言語(多くは宗主国や強国の)を習得せざるをえない状況に、この人たちが置かれてたからでしょう。
逆に、政治的・経済的に優位にある側の国民は、たいていあまり熱心に外国語を学ぼうとしない、というかその必要を感じない。


あの引用文でいわれてたのは、そういう弱者が強者のコードを仕方なく(否応なく)習得する、という意味のことではなくて、対等な関係に立つためのコミュニケーション能力の習得、ということだと思います。
その場合に、いま特権的な位置にいるものの方が、相手のコードに合わせるというわけではないけど、相手が置かれている位置を理解しようとする努力をする必要がある。ここを出発点にしないといけないのではないか。
つまり、相手が圧迫や強制を強いられているという状況を理解して、そこから自分の特権的な位置に段々気がついていき、社会の抑圧的な枠組みのなかに自分も閉じ込められてることを自覚していく。
そういうプロセスが大事なんだろうなあ、と思います。