『国家とはなにか』の書評を読んで

ぼくもよく読ませてもらっている『「壁の中」から』さん(たいへん優れた書評が読めるブログです)からTBをいただいたので、ちょっと驚いた。
http://inthewall.blogtribe.org/entry-9932f5bf67e0a286c748f8d7070e19e0.html

萱野稔人著『国家とはなにか』も、前々から読みたいと思っていて、まだ手がつけられずにいる本である。紹介文を読んで、やっぱり読みたくなった。

酒井隆史も「暴力の哲学」のなかで、サルトルの「受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である」という言葉を引用している。暴力や国家を、単になくすべき悪として描くことでは有効な批判たり得ず、いったんそれがわれわれにとって宿命的に持ってしまっているものとして受け入れることからはじめ、それを冷静にコントロールする方向へ持って行くこと。暴力論としての本書や「暴力の哲学」が繰り返すのはそのことだ。


暴力を人間の宿命ととらえ、また国家の本質を暴力の独占に見るような視点は、ここ数年で非常に説得力をもつようになってきていると思う。もちろん、「暴力批判論」(ベンヤミン)に代表されるように、こういう国家観はずっと以前からあるものだと思うが、少なくとも冷戦時代(「社会国家」の時代)は、それほど有力な言説ではなかったのではないか(そう考えると、サルトルという人の洞察力は、際立ってみえる。)。
現在は逆に、国家の本質をこういうもの以外のところに見出すことが段々難しくなってきている。


それから、税をめぐる議論のなかで、「所有」(「単なる物理的な占有」とは区別される)の根底に「国家による我有化」を見出すというのは、さすがにびっくりした。つまり、「盗み」という概念が成立するのは国家の支配がすでに確立しているからだ、ということだろう。
「盗み」についての議論も、やはりサルトルがジュネ論でものすごく拘ったところだと思うけど。サルトルは、「暴力」や「盗み」について、国家との関係でどういうふうに考えてたんだろう?