絶対に助けないとは言い切れない

ホテル・ルワンダ』のパンフレットに町山智浩さんが書かれた文章をめぐって、話題が沸騰しているらしいのだが、議論になっていることとはすこし違う点で考えたいことがある。
町山さんのブログで紹介されていた、このサイトの記事から。


このサイトの運営者の方は、以前、こちらのエントリーにコメントをくださった方のようですね。


このエントリーのなかで、この筆者の方は、町山さんが『ホテル・ルワンダ』のパンフレットの文章において提出しようとした問いかけを、『「理不尽な暴力が吹き荒れるとき、しかも傍観していれば自分だけはその暴力を逃れることができるような状況で、あえて被害者を助けることができる人間になれるか」という問い』であったと書いておられる。
この一重カッコ内の文章が、パンフレットからの引用なのか、筆者の方による要約なのか、ぼくには分からないのだが(たぶん、後者だと思うが)、いずれにせよ、ここから考えることが二つある。


ひとつは、この問いかけを、ぼくは不快に感じるということだ。
この不快さは、差別的な感情や行為の、ひとつの芽なのかもしれない。現に自分は、『ホテル・ルワンダ』を見る前も、見ているときも、見た後の今も、あの映画にかかわる何かを否認しているようにも思う。それが、昨日のエントリーで、『映画を見終わって、自分が何を見たのかがはっきりしない。』と思った理由かもしれない。ともかく、ここは今はっきりいえない。
言えることは、もし、上記のような問いかけが本当に投げられていたのだとして、自分にそういう不快な投げかけをしてくる人を、排除したり抑圧する社会は、よくない社会だろうということだ。


考えることのもうひとつは、上の問いかけに対して、いま自分が出来る答えは、『絶対に助けないとは言い切れない』というものではないか、ということ。
あの映画の最後に近い場面で、主人公が家族と離れて、自分だけがホテルに残る行動をとったとき、その行動をとる最後の瞬間まで、主人公は、自分がそうするとはまったく予期できなかったのではないか、と想像する。
すると、人間が自分として生きている限り、自分が「生き残りたい」という意志の通りには行動しない、つまり予期できない行動をとる可能性が何億分の一かであっても残されていて、その可能性をあらかじめ抑圧しないということは、非常に重要であると思う。
だから、「絶対に助けない」と言い切ってはいけないのだ。そう言い切ることは、(自分が?)生きているということを否定することになるから。