『ある子供』

ジャン=ピエールとリュックのダルデンヌ兄弟による監督作品。
この映画の公式サイトを見ると、監督自身の発言として、あるいは有名人のコメントを集めたなかに、『人は変わることができる』『そのことに感動した』、みたいな言葉が並んでいる。
たしかに、映画のラストはそういうふうになっているし、そこに作者たちの重要なメッセージがこめられているだろう。
たまたま、ぼくも前回のエントリーで、同じようなことを書いた。
だが、それだけを強調すると、この作品が突きつけてくる肝心なものを見えなくしてしまうことになると思う。


若年層の失業率が20%というベルギーの都市で暮らす20歳の職の無い青年ブリュノと18歳のソニアという若いカップルが主人公である。ブリュノは、小学生ぐらいの子供たちと仲間になって、盗みで金を稼いで日々を送っている。
あるとき、この二人に子供が出来る。生活を安定させたいので職を探して欲しいとソニアは言うが、ブリュノは職安の長蛇の列に嫌気がさして探そうとせず、たいしたためらいもなく金欲しさに赤ん坊を幼児売買のブローカーに売ってしまう。
そのことを聞かされたソニアは失神する。ソニアの口から事が警察に露見することを恐れたブリュノは、なんとか子供を返してもらうが、また一文無しになり、ブローカーの男たちに脅されて大金を用立てねばならなくなる。
入院していたソニアとよりを戻して当座をしのごうと安易に考えるブリュノだが、もちろん激怒しているソニアはまったく寄せ付けず、アパートの部屋から追い出してしまう。
打つ手のなくなったブリュノは・・・。


ブリュノが日々の生計を立てている盗みは、19世紀の小説やジュネの『泥棒日記』に描かれているような、聖性や反社会性を帯びた反抗的な行為ではない。職も容易に見つからず、積極的に生きることに展望を持てない社会の現実のなかで、ルーチンワークのように品物を盗み、細かい値段の交渉をして売りさばく、単なる生きるための方途にすぎない。
それは、単調な賃労働のような盗みなのだ。


この映画を見ていて印象的なことのひとつは、台詞が異様に短く思えることだ。
言葉の特徴はぼくにははっきり分からないが、短いセンテンスの言葉だけが、ぶつけあうようにやり取りされるだけで、会話が行われていく。
この乾いたコミュニケーションの感じが、若年層の失業率がきわめて高い、この社会の人々の、閉ざされ打ちひしがれた内面をよく表わしているように思えた。


仕事を探して欲しいというソニアの頼みを、ブリュノは「クズどもと働けるか!」と一蹴する。
この台詞は非常に重要だ。
ブリュノが労働者たちを「クズども」とみなしているということは、自分自身を「クズ」と考えているということ、そう思い込まされてきたということの反映だろう。
彼がなんのためらいもなく、生後数日のわが子を売り飛ばしてしまうのは、この社会から与えられた彼の否定的な自己認識が最大の理由だと考えるしかない。


子供を売ったとき、ブリュノはソニアにそのことを当たり前のように告げ、手に入れた金を見せて「二人で楽しく遊ぼう」と言う。
また、退院してきたソニアに、ブリュノはよりを戻そうとして、子供を売ったことに「こだわるな」と言う。
ひどいことをしたという意識がまるでなく、ソニアが失神したり激怒したりする理由が彼には理解できないのだ。
ブリュノには、人間らしい感情や内面というものが、すっかり欠けているみたいに見える。つまり、まるで彼は「われわれ」(人間)とは違う、異質な特別な存在、若者のように見えるのだ。


だが、この映画のなかでもっとも印象深い場面のひとつである、子供を売り渡すときにアパートの一室で子供が連れ去られるのをじっと待っているブリュノの表情にうかがわれるのは、彼が自分の内部に何かを感じとり、そこから来る葛藤や不安を押さえ込もうとしている様子である。
このとき、彼は何に不安を感じておびえているのだろうか?


映画の最後で、いくつかのきっかけから、ブリュノは突然「愛情」や「人間的な感情」に目覚めたように見える。それをさして、「人は変わることが出来る」と語るのは、間違いではないだろう。
だが、そもそもこの人間的な感情は、彼のなかにあったから、あるきっかけで取り戻せたのだ。それ以前には、こうした感情は存在していたが遮断されていたのであり、彼の「非人間的」と見える行動は、この遮断によってもたらされたものに他ならない。この遮断が生じれば、人は誰でも同じように行動する。
ブリュノは、特別な人間ではない。彼は、ぼくであり、あなた自身だ。
重要なのは、この遮断の原因を問い、そこから人々を解き放つことである。


映画の最後は、人間性や愛情の回復と言う意味では、たしかにハッピーエンドだ。
だがあえて言えば、このハッピーエンドはあまりにも悲しく、若者たちの現実の苦悩は重すぎる。
すでに彼らが失ったもの、奪われたものはあまりに大きいのだ。
人間性や愛情は、社会によってこの若者たちから奪われていたものである。その剥奪が、彼らに不幸な過去及び現在と、暗い未来をもたらした。
本当に必要なのは、回復や復帰ではなく、奪回であり、解放だというべきだろう。


じつは少し前、NHKの『クローズアップ現代』に、監督のダルデンヌ兄弟が出演して、この作品のことなどを語っているのを見た。ちょうど、フランスでの若者の暴動の直後ぐらいではなかったかと思う。
「現代の若者に何が一番欠けているか」との質問に、兄弟の一人が「社会に対する怒りの表明だ」みたいなことを言ったら、国谷裕子の目が点になっていた。