『麦の穂をゆらす風』

冒頭の場面で、アイルランドの村の若者が、イギリスの武装警察隊の尋問に対して英語を使わず、禁じられていたアイルランド独自の言葉であるゲール語を使ったことがもとで惨殺される。
この若者の死を悼んで、村の老婆たちが歌うのが、イギリスへのレジスタンスの戦いに身を投じる若者の心情を歌ったアイルランドの伝統歌「麦の穂をゆらす風」である。
その歌声と節回しは、たとえようもなく深い魅力をもっている。


イギリス人であるケン・ローチが、イギリスの支配から脱するためのアイルランド人たちの闘争を題材にしたこの映画を撮るに当たっては、イギリス国内で激しい論議が起こったらしい。「反英的である」との非難に対して、ローチはカンヌ映画祭で、次のように語ったそうだ。

私は、この映画が、英国がその帝国主義的な過去から歩み出す、小さな一歩になってくれることを願う。過去について真実を語れたならば、私たちは現実についても真実を語ることができる。英国が今、力づくで違法に、その占領軍をどこに派遣しているか、皆さんに説明するまでもないでしょう(公式サイトより)

ローチの立場は明確であって、アイルランドを不当に支配していた過去とまともに向かい合わずに来たことが、たとえばイラクへの占領軍の派兵という自国の「現在」と結びついているという事実を批判するものだ。


この映画はたしかに、独立闘争の過程のなかで「共和国派」と「自由国派」に分裂して内戦状態となり、兄弟同士が敵味方に分かれてしまうという悲劇の重さを描いている。
映画でもっとも心を動かされる場面のひとつは、「裏切りもの」と呼ばれることになった若い友人を、上部からの命令によって、丘の上で主人公が銃殺するところである。そして、作品の最後には、さらに大きな悲劇が、主人公とその兄の身に訪れる。
そこではたしかに、個人ではどうにもならない歴史の荒波に巻き込まれて、人間的な心を硬化させ、関係をずたずたにされていかざるをえない人々の姿が、繊細に描き出されている。


だが強調するべきことは、ローチの視点は、中立的な立場から歴史に翻弄される個人の悲しみを描き出す、といったものとは違うということだ。
ローチが身を置いているのは、あくまで支配や抑圧に対して「抵抗」するものの側であって、中立的な場所ではない。
イギリス人であるローチは、抑圧の暴力を振るうイギリス兵と、抵抗するアイルランドの人々を「同じように中立的に見る」という欺瞞をおかさない。
また、妥協的な半独立の条約を受け入れようとする「自由国派」の立場と、完全独立への道を貫こうとする「共和国派」の立場を、「どちらにも利がある」というふうに曖昧に捉えることで、抵抗や自由の意義を台無しにしてしまったりはしない。
そのことは、『独立への戦いと同時に、その後にどのような社会を築くのかがいかに重要か』を提示したかったという、インタビューでのローチの言葉にもよく示されているだろう。この映画からはっきり感じられることは、「共和国派」の綱領に盛られた社会主義的・反資本主義的な要素を、ローチは現在につながる「抵抗」の思想として積極的に意味づけているということだ。
だがそれは、特定のネーション(たとえばアイルランド人)や、特定のイデオロギー(たとえば社会主義)に、この映画作家が加担することを意味しているのではない。彼個人の「思想・信条」はどうあれ、映画作りにかかわることとしては、そういうことではない。


彼はあくまで、「自由」の側、抵抗するものの側に身を置くのだ、無条件に。
映画の最後の部分で、「誰のために戦うのかはすぐ分かるが、何のために戦うのかが重要だ。今ぼくは、何のために戦うのかが分かった」という、主人公の言葉が出てくる。
この自問、そして信念は、まさにローチのものだろう。
そしてそのうえに立って、イデオロギーや人種を越えた人間そのものへの普遍的な愛と優しさが注がれている。彼の映画には、ごまかしのない、根本的な優しさがあるのだ。
この映画に示されたケン・ローチの「正しさ」、そして「公平さ」とはそういうものであり、またその比類のない映像の美しさと温かさも、そうした彼の根本的な「姿勢」に由来していると思える。


スクリーンを見つめているだけで、まるで深い森に見入っているような気持ちになる。
こういう気持ちにさせる映画監督は、他にあまりいないと思う。