表現への意志

ひとびとは絶えずちいさく離れてゆく


うしろから


声のないひびきが深く水脈をひいて


おれは聴く おれはわからない


奪われることが何かの始まり


始まりであることを     (黒田喜夫 「希望の始まり」から)


大阪市がおこなった行政代執行から、ちょうど一週間がたとうとしている。
ぼくはいくつかの理由から、こうした動きが今後全国的にも広がっていく可能性があると見ているので、その意味でも、とてもあの出来事を過去のこととしてしまうわけにはいかないのだが、記憶が鮮明なうちに、あのときの自分の思いや、体験した事柄を反省し整理しておきたい。


いま思うと、自分があの日うつぼ公園に行ったのは、「その出来事が起こる現場に立っておきたい」という気持ちからだった。
「自分の目で見て、報告する」という気持ちがあったと先に書いたが、たとえ報告する手段がなくとも、またたとえ見なくとも、重要と思われる出来事の現場に自分の身を置いてみるということは、とりあえず大事であろうと思ったのだ。
そして、あの場に身をおいたことによって、やはり自分は自分なりに、強い影響を受けたことがあった。


前回のエントリーで紹介した小川恭平さんの手記に、次のような一節があった。

ここからは、職員たちが入ってくるのがよく見えた。数カ所の入り口から、きれいに並んで入ってくる、安っぽく整備されたところをオリンピックの行進のように。ずっと入ってきて、ぴたっと止まる。みな、きれいな制服を着ている。万里の長城のように人々が連なっている。
いつのまにか、すごい数の報道陣だ。マイクを持ち、カメラをまわし、勝手なことをしゃべってはレポートしている。空にはヘリコプター。


あるおっちゃんが、ふらふら出ていって、長城のようになっている職員に「お前ら帰れ、」など、からんでいってる。前にうつぼに来たとき、30日は、つれをぎょうさんつれてくるからな、とすごんでいたおっちゃんだが、1人で絡んでいる。


わたしは、ここは、舞台だな、と思った。
「あー」と大声を出したら、意外と大声がでた。だまって長城のように並んでいる職員たちの前で一曲歌うことにした。
「サンタールチア」


これは、あの30日の朝の感じを、非常に的確に描いている文章だ。
そして「ここは、舞台だな、」という直感は、非常に鋭いと思う。
小川さんが書いておられることと、正確に同じかどうかはわからないが、ぼくもそう感じていた気がする。


舞台だ、という意味は、あの場所では多くの人が、日常の自分の感情や表現の枠を越えて、自分を表出しようとしていた、ということだ。それはもちろん、基本的には「長城のように並んで」やってくる職員の人たちへの訴えかけ、という形をとるものだった。


そのことは、あのときに抗議し抵抗する多くの人たちが表出していた感情に、誇張や偽りがあったということではもちろんない。
「舞台」の上でしか表わせないような人間の生や感情の真実というものがあり、普段の生活では見えなくされているそういう過剰な何かを、思い出させる力があの場所にあったということなのだ。
あの場所では、必死な怒りや悲しみの表現(言葉)によって、人が人に何かをぶつけ、伝えようとしていた。


「等身大の」とか「身の丈の」といった言い方がある。もちろんそれは大事なことだが、日常の社会では、そうした言葉が、人として生きる、他人と関わりあって生きるうえでの抑圧として作用し、人と人とを孤立や分断や厳しい対立のなかに追いやる場合がある。
「長城のように並んで」やってくる職員の人たちを支配していたのは、そういう抑圧ではなかったかと思う。


あのとき、ぼくにはそこまで思う余裕がなかったが、自分が大阪市現業職員の立場だったら、あの代執行の業務を拒否できただろうか。結論だけいうと、出来なかったと思う。するべきと思っていても、そうした自信はない。
またガードマンの人も多く動員されていたが、失業状態にある人たちがその日をしのげる一番主要な働き口は、いまはガードマンの仕事らしい。それから、解体されたテント小屋の材料を運び出すために、引越し業者のトラックがたくさん園内に入ってくる光景を見た。アルバイトの人たちもいたのだと思う。
あの日、代執行をする側にいた人たちの多くは、職務を拒めば、いつ失業や路上生活を余儀なくされるかもしれない、弱い立場の労働者や非正規雇用の人たちだったんだろう。


たしかに、そういう弱い立場の人たち同士が対立し、憎しみあい、怒号の応酬やもみ合いをしていたというのが、あのときの実情だろう。
行政代執行には、いわゆる「権力との闘争」とは、違う悲しさがあるのだ*1
やはり前回紹介した文章で、「旗旗」の草加耕助さんが書いておられたのも、そのことだったのではないかと思う。
ぼくは、それに気がつかなかった。


うえに「舞台」という言葉を使って書いた、抗う人たちの感情の激しい表現は、その自分たちと同じ立場の生身の人たちに向けられたものだった。
ぼくがあの経験から受取るべき一番大事なものは、この表現、伝えようとすること、この他人に対する訴えかけの熱情なのではないか。
それは、自分を越えて、何かを他人に伝えようとする、人の人に対する願いのような気持ちだろう。


ぼくが言いたいことは、「相手にも相手の立場があるんだから」ということではない。
それで終わらせてはいけないのだ。
相手の立場を理解したうえで、対等な同じ生身の人間として、自分をぶつけ、相手が今でなくとも、いつか変容することに期待する。その信頼と願いの証しとして、感情を精一杯相手に表現し、ぶつけるということ。「舞台」としての生。


正規雇用や、失業者、野宿者、それから学生とか、労働者とか、立場の弱い者同士が、生活のため、あるいは自己や家族の安全のために、制度や会社から下される命令によって暴力的に対立し、憎みあったり、心身両面で傷つけあったりするという構図は、これからの社会ではどんどん日常化していくと思う。
徴兵制がなくとも、それは日常化する。


その時代に、ひとつ希望を見出せるものがあるとすれば、あの表現の過剰さ、人が人に自分を越えて、感情とか何かを伝えようとする意志の噴出、それではないだろうか。


フォークナーは、1933年以後のドイツでは人はナチであるかユダヤ人であるかしか選択肢がなかった、と書いている。
これは、単純な二分法的な思考ではないだろう。
どんな人間も、ナチにもユダヤ人にもなりうるのだ。ナチになった人間は、いつかユダヤ人になることができるし、ユダヤ人となった人間は、いつか必ずナチにもなりうる。そういう意味だと思う。
いまは逃れがたい抑圧のなかにいても、人はいつか変わりうる存在なのだ。


自分が最悪のものでもありうる可能性を自覚しながら、いま抑圧のなかにある他人がいつか変容する可能性を、あくまで信じ続けること。
あのときの、野宿の人や、それを支えてきた人たちの怒りや悲しみの表現に、そういう信仰にも近い強い気持ちを、ぼくは見出したいし、見出すべきなんだと思う。


抑圧や孤立と分断のなかで、立場の弱い者同士が対立するしかないこれからの社会で、それを乗り越えて人間同士が生きていく希望の光があるとしたら、それはこの「表現への意志」だけだろう。
自分を含めて誰もが変容しうる存在であることを、恐れとともに信じ続ける気持ちから発する、他人への必死な呼びかけと伝達の熱情。
その小さいが強い光に、ぼくはあのとき触れていたのだと思う。

*1:警察や軍隊への抵抗にも同じ要素があるだろうが、これほど構図が歴然とはしていないと思う。