生きるための最低限のライン

年明けからの大寒波のため、東京では新宿で路上生活をしている人のなかから死者が出たと聞いた。東京に限らず、この寒さは野外で生活をしている人たちの生命を直接に脅かしているだろう。
路上生活で亡くなる人の数というのは、大阪市だけでも年間200人にも達しているそうなので、今冬の寒さで命を落とした方は、全国にもっとおられるのではないかと思う。
また、インドのニューデリーには、地方から出てきた約10万人の路上生活者がいるそうだが、今年はこの土地も前例のない寒波に襲われて犠牲者が出ているようだ。


日本のこの冬の寒波と大雪は、いわゆる地球温暖化現象に原因があるという専門家の見方が、先日の「ニュース23」で紹介されていた。
ヨーロッパなど近年世界中で起きている異常気象の多くが「地球温暖化」(ぼくは「高温化」というべきだと思うが)と関連があるという意見は、よく耳にするところだ。
それが原因で命を落としている人、これから落とすであろう人は、おびただしい数にのぼるだろう。
ぼくは、ブッシュ政権が犯した最大の悪は、イラクへの侵攻でも新自由主義的な政策と風潮の拡大でもなく、「地球温暖化」を促進したことにあるのではないかと思っている。


肝心なことは、環境破壊によるこうした気候変動によって、野外など人工性の低い環境で人が生きて生活していくことが、段々と困難になってきている、ということだと思う。
とりわけ都市部では、高温化などのため、空調の利いたドームのような人工的な空間のなかでの生活に多くの人々が過度に適応していく。その人工性を保つために、さらに環境破壊が進行して野外での生活はさらに困難になり、生命の維持さえ難しくなっていく。
ドームに入れないような貧しい人たちは死に、そうでない人たちはドームのなかの生活への過剰適応がすすむ。
そうなると、人工的な環境で生きることが、人間が生きることの基本的な幅、ということになってしまうだろう。
今の社会のあり方が続くと、こうした悪循環による「淘汰」と人間の生の幅の縮小、そして階層による人々の間の隔絶だけが広がっていく恐れがある。
それに歯止めがかからないのは、貧しくとも豊かであっても、とにかく「人が生きていくこと」という最低限の基礎的な条件が、社会のなかで重要なものと考えられていないからではないかと思う。



日曜の深夜、「生活保護」の現状を報じる日本テレビ系のドキュメンタリー番組を見た。
生活保護は、人が最低限生きていくことを保障する最後の政策上の歯止めであるわけだが、この番組によれば、日本では行政が支出を抑えるために「生活保護の適正化」という名目で、非常に厳しい審査を行って、給付しない、それどころか申請書さえ出させないようにする傾向が強まっていて、生活保護を受けられずに困窮し餓死していく人の数が増えているらしい。
現在生活保護を受けている人の数は年間約百万人であるが、受給資格があるのに受けられない人の数は、その10倍にも20倍にもなるのではないか、と番組では語られていた。
しかも、小泉政権下の改革によって、厚生労働省生活保護の費用を今後地方自治体に肩代わりさせるという方向で話が進んでおり、そうなると自治体は財政難のため、いっそう生活保護費の切りつめを行うことになるだろうから、生活保護が得られないままに飢えて死んでいく人の数が増えるのは必至の情勢だ。


国や自治体の財政という観点からすれば、不必要であったり不正な支出をなくしていこうとする努力は当然だろうが、現実に困窮する人が増大していて、死者まで出ているではないか。
人が最低限生きていけるようにするということが、緊急の課題として、なぜ政策の最優先事項とされないのか。
そういう社会の底辺(ボトム)の、ということはつまり「最低限のライン」での生存の保障ということが、重要でないと考えられるような風潮が、今の社会のあり方の底に根付いているような気がして仕方がない。


経済的な面でも、自然環境の面でも、『人が生きるための最低限のライン』の確保は、今の社会ではどんどん難しくなっているように思う。





そういうことを考えていたら、id:kwktさんのサイトで、たいへん興味深い記事を読むことができた。
http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060114#p1


リバタリアニズムと分配的正義についての、森村進さんという方の講演を、kwktさんが詳しくまとめて感想を付記された労作だ。

ただ「最低限の生活を保障するためのある程度の富の分配は認めるというミニマリスト」としては、個々人の絶対的水準の貧しさに関心をもつが、相対的な格差を問題とはしない、とのことでした。

「社会におけるどのような存在に対しても無条件の肯定を与えるべき」という言説をよくみかけますが、僕もそうであってほしい・そうであるべきと思いますが、この言説とリバタリアニズムははたして本当に対立するのだろうか、と考えさせられました。


ぼくも、社会のなかでの自由な競争や、それによる貧富の格差の増大といったものを、一概に否定するような社会はよくないと思う。
上記の講演のまとめのなかにもあるように、累進課税というものが、その否定につながるような不自由さのあらわれになりかねないという危惧は、若い頃から一貫して思っていることだ。
森村さんやkwktさんのご意見、またエントリーの最後に紹介されている対談での議論の内容にも、基本的に異論はない。


だが、競争や工夫によって豊かに生きるにせよ、あえて貧しさを選択して生きるにせよ、そうした「自由で多様な社会」の根底をなすのは、人が生きていることそのものの価値に対する肯定、ということだろう。
生きるための「最低限のライン」(「絶対的な水準」)の確保というのは、そのことに関わっていて、つまり自他の生の根本的な価値が重視され肯定されることによってはじめて、富者の豊かな人生も、貧者の貧しいがゆとりのある人生も、共に本当の幸福を保証されるのだ、と思う。
さらに言えば、生だけでなく、死もはじめて、そこで真の価値をとりもどせるのではないか。


今の社会のあり方は、富者と貧者とに共通した人生の価値や自由の基盤である、この「生きていることそのものの価値」を忘れ去らせる傾向にあると思うのだ。
こうした社会のあり方は、貧者にとってはもちろん悲惨だが、自由や豊かさを信奉する人たちにとっても、その人生の本当の意味を得られなくさせるようなものになっているのではないか。
なぜなら、富を得て「上流」に入ろうとする人たちは、競争に勝ち残って豊かな人生を楽しむ目的で競争に励むのだろう。もし、この「人生」そのものが、幅の狭い限定的な可能性と価値しか持たないものだとしたなら、結局この人たちは、何のために努力し競争していることになるのか。
死ぬまでドームの中だけで暮らし続けるためにか?


自由や競争の肯定か、平等の実現かという二者択一は、さほど重要ではない。
重要なのは、今の社会では「自由」や「豊かさ」というスローガンに反して、その基本的な条件であるはずの「生きていることそのものの価値」が忘れられているということで、時代の流れに抗してその基本的な価値を再び見出すことが最先決なのだ。
そのとき、どんな条件であっても人が生存していけるような社会、世界を作っていくということは、理想論ではなく個々の生の幸福のための必要条件として見えてくると思う。
そこから考えれば、環境破壊の抑止や、制度による最低限の経済的保障の実現は、全ての人間にとって緊急の課題であるというべきだろう。