撫順戦犯管理所

先日あるところで、数年前にNHKETV特集で放映された中国の撫順戦犯管理所での出来事に関する番組を見る機会があった。
撫順戦犯管理所には、1950年にスターリン毛沢東との間の取り決めによってシベリアのラーゲリから移送されてきた、旧日本軍の戦犯(捕虜)1000人が収容されていた。この人たちは、映画『ラスト・エンペラー』で有名な元満州国皇帝溥儀とともに、中国に引き渡されたのである。
その後、収容されていた6年の間に、この人たちは戦争中の自分たちの加害行為を認めるようになり、中国でおこなわれた公開の裁判でその罪を告白して謝罪し、許されて日本に帰ってくる。この人たちの多くは、日本に帰ってから中国帰還者連絡会(中帰連)という組織を作って、「洗脳者」という誹りを受けながらも、証言をとおした平和のための活動をつづけることになる。
体験者から見た、この間の出来事の経緯は、中帰連の下記のサイトに詳しい。
http://tinyurl.com/7uqb4

とくに、
http://tinyurl.com/dzqmv


この管理所での出来事を知っている人、とくに裁判の場で自分の戦争中の行為を告白して謝罪し、被害を受けた当事者である中国の人に涙をながしながら深々と頭をさげる元日本兵の映像を見たことのある人も、すくなからずいるのではないかと思う。
忘れがたい映像だ。


ところで、このようないわば「改心」が行われた背景には、中国政府がこの管理所で日本人収容者に対してとった非常に寛大な対応があったことは、以前から知られていた。それによって収容者たちの心が次第にほぐされていき、やがて自分から罪を認める心境へと変化していった、ということである。
この対応を「人道的」ととらえるか、あくまで政治的な戦略ととらえるか、その重心の置き方をめぐって、ずっと議論がなされてきたわけだ。


このNHKの番組では、中国が当時の国際情勢のなかでこうした対応をとる必要があったことの説明がなされるとともに、日本人収容者、また特に中国人の管理者の側の証言をとおして、当時撫順戦犯管理所でなにが起きていたのかが、詳細に描かれていて、たいへん興味深かった。


「寛大な対応」のなかでも有名なものは、当時中国人の看守などは、一日二食、それもコーリャンしか食べていなかったのに、日本人収容者には米の飯が一日三食与えられた、ということだ。これは、収容されていた人たちを、非常に感動させたといわれている。
番組では、じつはこの方針が中国政府から示されたとき、看守や管理所の中国人労働者の多くは激しく反発し、多くの人が職場を離れていったこと、周恩来が直接その説得に乗り出して、国策のために収容者に対するこうした厚遇を徹底させることを、人々に納得させた経緯が紹介されていた。
中国政府は、日本人収容者(戦犯)たちに、自発的にその罪を認めさせることを目的として、その後三年間をかけてこのような待遇を実践していく。つまり、「下地」をつくるのに三年を費やしたのだ。
そしてその後、人々の心が和らいだ頃を見計らって、それから書物や演劇などによる「思想教育」を少しずつ行っていき、日本人自身のなかから、自分たちの戦争中の行為に対するとらえ方の変化が生じるのを粘り強く待った。
証言を読むと、やがて、戦争中の行為を当然のものであるとする考えから、被害を受けた側の立場にたって自分の行った行為をとらえるという態度へと、各自のなかで転換が生じるようになり、そこからいわゆる「認罪」(上記サイト参照)の動きが大きな波のように高まっていった、ということのようだ。


この番組を見て思ったのは、毛沢東周恩来といった当時の中国の政治指導者には、人間の心というものに対する、非常に冷徹な工学的な認識があったということである。
彼らがその時考えたことは、人間に過去の行為に向きあわさせ、それを罪として認めさせるにはどうすればよいか、という問いだった。そのためには、強制ではなく、長い時間をかけて、自分からそのような心の状態に向うように仕向けていくしかない、という冷徹な結論に達したのだ。
撫順戦犯管理所は、そのためのいわば実験場であり、毛沢東周恩来は、その国家的な実験に勝利したのである。
それはシベリアのラーゲリソ連によって行われたこととは、たぶん非常に違ったものだったはずだ(実際、ここに移送されてきた多くの収容者たちを感動させたのは、シベリアの収容所での境遇との激しい差であった)。


こうした、人間の心に対する工学的な認識と実践は、なるほど悪と呼ぶべきものかもしれない。
だがそれは、なんと壮大で巧緻な悪であろうか。
おそらく日本という近代国家は、このようなレベルの悪に到達したことは一度もない。
それは、「他者の心」というものを、一度もまともな認識や働きかけの対象とすることができなかった、ということである。
当時の中国には、それが可能ななにかがあったのだ。その「なにか」は、政治的・思想的なものでもあるが、そこにとどまるものではないだろう。それはむしろ、宗教的なものに近いのかもしれない。


この工学的な勝利から学ぶべきことは、日本にとっても世界にとっても、今日なお多いはずである。