堀江貴文とオーマイニュース

さっきの記事をアップしてから思い出したんだけど、たしか1月の終わりごろ、ホリエモンが独房のなかで韓国語の勉強をしてるという記事を読んで、やはりオーマイニュース的なものと提携する気持ちを捨ててないのかな、と思った。
ぼくは、彼の可能性の一番評価できるものは、そういうことにあるとずっと思っていて、それについて、ここにエントリーしようと思って文章を書いたんだけど、ちょうど行政代執行の現場に行ったりしてそれどころでなくなり、アップしないままになった。


その趣旨は、堀江という人の最大の魅力は、その破壊的なまでの「非政治性」にあって、そこから面白いメディア状況が生まれる可能性があったのでは、ということだった。
ちょっと、下に書いてみる。長い引用だけど、自分の文章だから、まあいいでしょう(笑)。

堀江のやろうとしたことは、政治でなく、経済(市場原理)をマスコミの情報提供の尺度にしようとしたことだ。これは政治的な理想や社会正義にとっては、たんに暴力的な否定と思われるが、はたしてそうだったろうか。
堀江の方法を突き詰めると、どんな政治的主張をもつ言説であっても、商売になるなら流通させる、という方針がでてくる。実際、ライブドアポータルサイト赤旗を加えたことは、この方針をよく示していた。
彼があえてそういうふうに言わなかったのは、インタビューを行った江川紹子に代表される人々が押し付けてくる(と、堀江には思われた)「政治」という概念の威光に対する反感のためではないか。


いや、堀江自身の主観は重要ではないのだ。
重要なのは、彼が「メディアを殺す」ことで開こうとした可能性の地平である。
堀江のこの方法論を実践すれば、現状では右派的であったり、政府の主張に合うような言論しか流通しないメディア状況を生み出してしまうと思われるだろう。
たしかに、その危険性はきわめて高い。
だが、堀江の「非政治」的な方針が徹底されたときに生まれるひとつの可能性は、国家や資本の方針に反するような「政治的な」情報が、そういう情報を「欲していない」消費者のもとにも当たり前のように届くという状況である。
つまり、オルタナティブな情報の発信に対する「消費者がいない」という条件は、ここで解消されることになる。
現状では実現不可能なこの状況から、どんな新しい事態が生じるかは、予測できないだろう。


堀江が行おうとした「メディア殺し」、「政治の排除」は、むしろあらゆる種類の政治的な情報が分散的に並存して流通するアナーキーなメディア状況を生み出していたかもしれないのである。
たとえばメインパーソナリティの西村真悟による「核武装肯定」の主張のあとに、コマーシャルをはさんで矢部史郎アジテーションが流れる、というような全国ネットの番組。
堀江の非政治性は、その非政治性という(日本的な)枠組み自体を破壊する可能性があったのだ。
今回、なんらかの権力が「堀江的なもの」の台頭を恐れたのだとすれば、その脅威の本質は、こういうことにあったのではないか。


堀江的なメディア改革(破壊)がもし実現していれば、現実には大きな混乱や暴力が生じた可能性は、たしかに小さくない。
だがそれは、それが行われなかった未来(もしくは現在)よりも暗いと、だれに言い切れるだろう。
堀江が「殺そう」としたメディア(今はメディアが堀江を「殺そう」としているようにも見えるが)は、いま果たして生き残るに値するものになっているだろうか。


必要なのは、権力を脅えさせた堀江の思考と方法のなかにある何かを、堀江の非倫理性や非社会性にさからってつかみ出し、継承していくことだ。
それは、堀江一人を叩くことによって、責任を逃れ力を維持し続けようとするものたちとたたかう有力な武器を提供してくれるはずだ。
この意味でも、権力とメディアによる「堀江殺し」に、われわれは決して同調してはならないのだ。


ここに書いた「堀江的なメディア状況」への期待が正しいものかどうかは、分からない。
ただ、彼の徹底して「非政治的」なスタンスの底にある、破壊的な要素が、マスコミや資本や政治の世界の守旧的な層を恐れさせたという部分は、あったような気がする。
それがぼくのなかでは、彼の韓国メディアへの関心と重なっていたように思われるのだ。


今回、その堀江ではなく、孫正義オーマイニュースの日本進出に手を貸すことになった。これは、オーマイニュース的なものからいわば毒を抜いた形で、そのある種のスタイルだけが、日本に導入され、取り込まれる、ということを意味するのではないか。


上のぼくの憶測が当たっていたとすると、守旧的な人たちが一番恐れていたことは、こうして避けられてしまったのかもしれない。
塀のなかで、堀江貴文はきっと悔しがっているとおもう。