ショウジョウバッタこそ虫である

先日小さな虫が部屋に飛び込んできたので何かと思ったらショウジョウバッタの子どもだった。体長は1、2ミリしかないが、手を近づけるとずいぶん高く跳ね上がって逃げ、どこかに行ってしまった。
夏になると、ぼくの部屋にはいろんな虫が飛び込んでくる、多いのは、蚊のほかにはカナブンである。これは、部屋のすぐ横に木が何本も生えているからだ。蜂、特にスズメバチが入ってくることもたまにあり、そのときはたいへんだ。そこまでいかなくてもセミやカミキリムシなどは騒がしく、虫嫌いのぼくとしては非常に迷惑である。
その点、このショウジョウバッタには、ホッとさせられた。子どもだったためもあるが、近くに来てもまったく緊張することなくやり過ごせるのは好ましい限りである。


それで思ったのは、ショウジョウバッタこそ、虫の代表ではないか、ということだ。子どもの頃、虫といえばまずショウジョウバッタを思い浮かべていた気がする。
たしかにもっとポピュラーな虫は多くいる。たとえば、セミ、カブトムシ、蝶、ハチ、トンボなどの昆虫たちである。しかしこれらは、セミセミ、蝶は蝶というふうに、それぞれの種類を代表しており、その存在感の確かさのゆえに、「虫」の代表とはなりえない、とぼくは思う。
虫とは、虫けらというような言い方に示されているように、昆虫であるなしをとわず、ちっぽけで取るに足りない生き物、といった概念である。
そして特に子どもにとって、それが草や木の葉などの身近な自然と交じり合った存在であれば、なお望ましいことになる。クモやゴキブリやハエや蟻も、たしかに虫だが、自然とのつながりが感じられにくいのは、気の毒だが減点材料になる。
これらの要件を満たす第一のものが、ショウジョウバッタであろうと思うのだ。
同じバッタでも、トノサマバッタというのか、普通のバッタになると、昆虫特有のマシーン的な、高性能な存在感が生じて、「虫」らしい取るに足りなさが乏しい気がする。
コオロギや鈴虫も同様で、何よりこれらの昆虫は鳴き声(音)を立てることが、やや難点である。
ショウジョウバッタの、あのさりげない自然ぽさと、存在の薄さ、軽さには及ばない。


有名な尾崎一雄の「虫のいろいろ」には、昆虫でない虫もあれこれ登場したと思う。
たしかに、虫と昆虫は異なる。
どちらかというと昆虫のほうが、有機体的で高性能な感じがある。虫は、それに比べると、生命としても取るに足りない、どうでもいいみたいな感じだ。
実際、英語では昆虫を原義とするinsectのほかに、bugという言葉も、虫を表す言葉としてあるそうだが、こちらを辞書で引いてみると、虫という意味のほかに、ばい菌とか微生物、ウイルスの意味にも使われると書いてある。ウイルスというのは、それこそ生物と無生物の境界上にあるみたいな中途半端な存在であり、「虫」という言葉の、生命や有機体には還元されない特性に重なっていると思える。
「生命の価値」みたいな言葉に、虫という語は馴染まないところがある。虫はもっといい加減な、あるいは広大なものだ。
また、辞書でbugという語の項目を見てみると、ほかに「〜狂」とか「〜熱」といった、つまりは「熱中する」という意味でも、この語を用いるらしい。これはウイルス、というような意味からの連想なのだろうが、日本語の「虫」の場合にも、「本の虫」みたいな言い方があり、近いものを感じる。
このほか、英語にも同様の表現があるようだが、「腹の虫」、「虫が知らせる」といった言い方をあわせて考えれば、「虫」という概念が、必ずしも自然界の存在者をさすものではないことに気づく。
つまり、「虫」は、生命でなくてもいいどころか、存在していなくたっていいのである。


そういうややこしいものの総体をショウジョウバッタに代表させるのは無理があるが、日本の野原などにいる昆虫のなかでは、ぼくにとってあの虫が、やはり一番虫らしいものに思えるのだ。