虫の命

新潮文庫の『この人の閾』に入っている保坂和志の「東京画」という小説を読んでいる。88年から90年ごろの東京都内のある町の変貌を描いた小説だが、センテンスの長い文章で読みづらく、夏バテ気味なためもあってなかなか読み終わらない。
「東京画」というと、ヴィム・ヴェンダース小津安二郎に捧げたオマージュのような映画があったが、この小説は(ぼくが小津の世界をよく理解していないためか)小津的という以上に、永井荷風の作品を読んでいるような感じを受ける。
この主人公は、現代の小説の登場人物にしては、(「日和下駄」みたいに)よく近所を散歩しているが、ぼくも昔東京に居た頃は、相当長い距離を歩き回った。巣鴨の近くに住んでいたが、新宿ぐらいまでは平気で歩いていた。小石川の方とか、谷や坂みたいな地形が多くて、東京は結構人に散歩したい気持ちを起こさせる地形なのではないかと思う。
大阪の地形は、中心部はどうもあれほど面白くない気がする。


ところできのう、『「生命の価値」みたいな言葉に、虫という語は馴染まないところがある。』と書いたが、これは虫の命には値打ちがないという意味ではない。
ただ、「生命の価値」という言い方が馴染まないというだけだ。
「一寸の虫にも五分の魂」という言葉もあるが、虫に魂があるかどうかはともかく、生物と無生物との中間みたいな虫の存在に値打ちを見出すことで、生きるとか死ぬということの別のあり方が見えてくるのではないか、ということを言いたかったのだ。
やはり保坂和志の小説を読んでるから、こういうことを考えるのか。