不安や緊張を耐えること

11日のエントリーの内容について、もう少し考えてみる。


イギリスの対テロ捜査の能力は世界一といわれているようで、すでに犯人像が絞られてきているという情報もある。もちろん、本当に大事な情報は犯人逮捕までは隠されるのだろうが。
警察の肩をあまり持ちたくないが、今回のような事件に対しては、あくまで軍事力でなく警察力で対峙することを原則とすることが重要だろう。
11日のコメント欄に、テロは主義主張によるものではなく、利益を追求する犯罪行為だ、と書きこんだ人があった。これは引用したロンドン市長の発言と、そう変わらない趣旨の意見だと思うが、主義主張によるものであるにせよ、利益を目的とするものにせよ、大規模な暴力であることにはかわりがない。
ただ大事なことは、今回の事件を、主義主張とは無縁な、たんなる犯罪であると断定することによって、イギリス社会内部での人種間、宗教間の軋轢の拡大に歯止めがかけられる可能性があるということだ。ロンドン市長の発言は、そのような治安上の意図を持つものとして読める。
当然これは、もうひとつの治安上の意図、つまりテロの実行者を民衆から孤立させ逮捕・取締りを容易にしようという狙いと表裏一体だ。
イギリスの警察や情報機関が、テロに対処する強権的な力を持っているということと、右派によるイスラムの人々への攻撃を押さえ込もうとするロンドン市長の発言とは、同じ思想から発したものだといえよう。


世界的な富の不均衡がある限りテロはなくならない、とよく言われる。国際社会も、非常にゆっくりとながらその方向を模索しはじめているのかもしれない。
だが、富の不均衡が解決されたとき、本当に戦争やテロのような大規模な暴力がこの世から消えるだろうか。
消えないだろう、という冷徹な考えが、ロンドン市長の発言の底にはあり、「テロは恐ろしいが仕方がない」というイギリス市民の言葉のなかにあると思う。
ぼくが重要だと思うのは、この考え方である。


富の不均衡は、それがテロの原因であろうがなかろうが、解消されるべきだ。
戦争やテロといった大規模な暴力から、どう人々を守るかは、それとは別の問題である。そうした暴力は、現実には根絶されないだろうというリアリスティックな認識が、イギリスの対テロ捜査を支え、多民族社会を支えているのだと思う。
それは、危険は根絶されがたいという現実を直視し、その不安や緊張感に耐えながら、それとともに生きる、という態度である。
たとえば空爆や、移民の排斥によって、危険が根絶されうるというナイーブな思想の、それは対極にある。
あえて不安や緊張感を引き受ける、こうした冷徹な生の態度に、ぼくたちは多くを学ぶべきだと思う。