ロンドンの爆破事件

今回の同時爆破事件についてロンドン市長は、これは権力者を狙ったテロ攻撃でもなければ、イデオロギーや信仰の悪用ですらなく、たんなる無差別大量殺人であると明言し、多民族都市ロンドンで人種間や宗教観の分裂と対立が広まることをいち早く牽制したという。
自治体の長として、立派な発言だと思う。
ニューヨークの市長や東京の知事とはえらい違いだ。


インタビューに、「テロはおそろしいことだが、それが起きることは防ぎようがないのだから仕方がない」と答えるイギリス市民の言葉をテレビで聞いたが、テロの恐怖と危険は根絶せねばならないという浅薄なイデオロギーがアフガンやイラクへの攻撃につながり、それがさらに今回の事件のような泥沼の状況を生みだしていることを思えば、この言葉にはたんなる諦念ではなく、共存のための深い知恵を感じる。
それはむしろ「悪」に近くさえある。


事件発生直後の映像を見ていてぼくが思いだしたのは、先日の尼崎のJRの事故である。
爆弾テロによる被害と、一般の鉄道事故とをいっしょにはできないはずだが、ぼくにはこの二つの大惨事は重なって見えた。
日常当たり前に利用している交通機関が、突然の惨事に見舞われ、爆風や衝撃のなかで生命が失われ、あるいは深い傷をおう。なにげない日常のなかに、凶暴なしかも大規模な暴力と死が繰りこまれている社会。
ぼくが住んでいるのは、そうした現実なわけだが、それはもちろん「テロ」だけによってもたらされるものではない。
そして、この同じ現実が、結婚式の最中に飛んできたアメリカのミサイルで多数の人々が一瞬に殺されたイラクの村をも覆っている。


戦争と戦争でない状態とを区分するものはなにか、安全と危険とはなにか、暴力による死とはなにか、そして(死んではいなくて)生きていることとはなにか。
それらすべてが曖昧なまま、ぼくは明日も地下鉄に乗る。