殺す責任

夕方のニュースを見ていたら、高槻市など大阪近郊の町で野生化したアライグマが増えて問題になっているらしい。
ペットとして飼われてたものが野生化したのだろう。飼い主が都合で飼えなくなり、ひきとり手を見つけることができず、困って捨ててしまったものと思われる。


アライグマというと、かわいい動物というイメージだが、結構凶暴な面もあるそうで、農作物などの被害ということ以外に、子どもなどが怪我をさせられる怖れもあることから、行政では捕獲に本腰を入れている。
つかまったアライグマはどうなるかというと、殺す(安楽死)しかないのが現状だそうだ。やはり市の職員が処分を行うのか、それとも業者に頼むのかわからないが、いずれにせよ殺害に手を染めざるをえない人たちは、気の毒だと思う。


ぼくが思うのは、飼っていた動物を飼えなくなり、ひきとり手が見つけられない場合、その動物の種類によっては飼い主自身が責任を持ってその動物を殺すべきではないか、ということだ。
そうしなければ、意に反して自分の手で生命を奪う行為に関与せざるをえない他人を生み出すことになる。これは、まったく理不尽なことである。
動物が飼えなくなって捨てる人というのは、軽い気持ちでごみのように捨てる人も、悩んだあげくどうすることもできず捨てる人もあろうが、特にアライグマのように危険な動物である場合、ほかの誰かがその生命を奪う行為を引き受けざるをえなくなるのだという事実から目をそらしていることになる。


たしかに自分が飼っている動物の命を奪うのは辛いことだし、生命の大事さという観点からも実行は躊躇されるだろう。
だが、生命ということに関していえば、動物をペットや家畜にして生命を管理し、人間の趣味で新しい品種まで生みだし、あげくに自然のなかに放って生態系を壊すといった行為を行っている時点で、生命の尊厳はとっくに踏みにじられている。動物を飼うということ自体が、ある意味では生命を毀損していることであり、そこを出発点にしてペットや家畜の生命をどうするかを論じていかなくては仕方がないのだ。
ペットになった動物たちの生命は、ある場合には、それを管理している人間自身の責任において処理されなければならないものだと思う。もちろん、そんな場合が、できるだけすくなければいいが。


たとえばBSE騒動などで、大量の家畜が人間の「安全」のためと称して殺処分されていくことをどう考えるかは、難しい。
だが、ペットの野生化といったことの場合、ペットを飼う人自身がきちんと責任を果たしていないことが問題であろう。自分が命を預かったペットを、最悪の場合には、(他人に迷惑をおしつけないために)飼い主自身の手で殺すことは、命あるものを飼う人間が当然果たすべき責任ではないだろうか。