ロマの豚

以前に淀川に出たヌートリアの記事を書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20100710/p2



ヌートリアは、戦前毛皮をとる目的で主に軍部により南米から輸入された動物だが(軍隊が寒いところに行ったからだ)、戦後は毛皮をとる必要もなくなり、放逐されて野生化すると、数が増えすぎて「害が出た」という理由から大量に殺されてしまい、今では岡山県以外ではあまり見られなくなった。
最近は、環境の変化などから、都市部で少し目に付くようになってるようだが、それもヌートリア自身にとってはあずかり知らぬところだろう。
最近は、アライグマが非難の対象になってるようだが、これも元々は勝手に持ち込んだり面倒を見切れなくなって野に放ったりした人間の身勝手に罪があることは言うまでもない。
アランではないが、人間はこういう形でも動物の生をとことん抑圧・搾取しているということは、疑いようのない事実なのである。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20100824/p1


毎日牛や豚や魚を大量に食べ、あまつさえ馬券さえ買い続けている私がこんなことを書いても説得力はないかも知れないが、事実は事実だ。
だが人間が搾取・抑圧する相手は、もちろん「動物」ばかりではない。我々は同じ人間相手にも、その度外れた暴力性を差し向ける。「差別」と呼ばれるものは、その一つの表れだろう。
差別の対象にされた人々は、しばしば動物を殺して解体したり、加工したりする職種に固定されるということがある。また、それに限らず、人間から虐げられる対象である動物たちの生や死と、身近なところで生きることを余儀なくされる。
そこで、その人たちの生活や文化には、私たちが抑圧の対象にしてきた情動のようなもの、動物にせよ人間にせよ、構造的な暴力の危機にさらされて生きるものたちに共通な感情や感覚が、ひそかに息づいているのではないかと思われる。
そしてそこに、人間が他者と関わって生きる、あるいは「他者とのかかわりを手放すことなく生きていく」ことについての手がかりを見出せるのではないか。





上原善弘著『被差別の食卓』(新潮新書)は、大阪南部の被差別部落に生まれ育った著者が、世界各地の「被差別の民」を訪ね歩き、差別や生活の現状と共に、伝承され共有されているさまざまな食文化をリポートするという内容の本である。

被差別の食卓 (新潮新書)

被差別の食卓 (新潮新書)

そのいずれの章も、私はたいへん興味深く読んだのだが、ここではとくにブルガリアのロマの人たちの元をたずねて、ハリネズミを食べるというロマ固有の風習をリポートした章のことをとりあげたい。
「第三章 漂泊民の晩餐――ブルガリアイラク」からである。

ハリネズミがロマ固有の食べ物であるのは、さまざまな欧州ロマの研究を見ても、間違いのないことだ。欧州では、ハリネズミを食べるのはロマだけなのだ。そのためにハリネズミは「ロマの豚」と形容されることもある。(p84)


ロマの人々がハリネズミに親近感を持ち、またそれを食べるということは(この二つのことは、元来重なっていておかしくはないだろう)、ロマ独特の「浄・穢」の信仰が背景にあると考えられているそうである。
ロマは、外部の人間自体が穢れていると考えるので、外部の人間の作ったものは食べようとしない、といわれているほどだという。また自分の体を舐める習性を持つ猫などは、外部の穢れを体内に取り込んでいる動物と見做されて敬遠される。
その意味で、ハリネズミは、外部の穢れを内に取り込むことのない、もっとも清浄な動物と考えられているのだと言うのである。

被差別民であるロマは、こうした?穢れ観”を先祖代々から現代に至るまで堅持し続けてきた。彼らはその穢れ観によって一般人から自らを隔離し、あたかも?ハリネズミ”のように自身を守ってきたのである。それは流浪の民が自分を外的から守るために培ってきた信仰であり、生活の知恵という側面もあった。(p85)


しかし、最近ではこのようなロマ独特の信仰や文化・風習も失われつつあり、ハリネズミもあまり食べられなくなってるらしい。
そのなかで、著者はブルガリアのある村落では、ロマの人たちが今でもハリネズミを食べているという話を聞いて、それを取材に出かけるのである。
ところが村落に入ってロマの人たちに話を聞いても、「食べないねえ」という答えしか返ってこないので、著者は途方にくれてしまう。

どうもこれはロマ独特の言い回しらしいと気付いたのは、しばらくしてからだ。このように事実と違う言い回しをするので、混乱させられてしまう。後で詳しく聞いた話によると、本当はみんなハリネズミが大好きで、一ヶ月に一回くらいの頻度で食べるのだそうだ。はじめからそう言えばいいのに。 
ロマ取材の難しいところは、彼らが時に嘘を言ったり適当に答えるということだ。基本的に外部の人間を信用していない彼らは、伝統的に気まぐれで嘘をつく。そのためにわたしは、何度も角度を変えて質問し直さなくてはならなかった。(p95〜96)


「外部の人間」としてやってきた著者を出迎えた、こうした「嘘」も、ハリネズミの「針」のようなものではないだろうか?
ハリネズミの「針」は、そう硬いものではないようで、捕まえられて丸くなっているハリネズミを著者も持ってみたが、『多少ちくちくするくらいで、素手でも簡単に持てる』程度だったそうだ。またハリネズミは逃げ足の遅い動物で、罠など仕掛けなくても簡単に捕まえることが出来るらしい。


ロマの人たちがつく「嘘」は、とても人間臭いもの、というより、人間という動物の根幹を示すようなものではないかと思う。
人間(たち)は、襲われたハリネズミのような境遇に置かれたとき、「嘘」という「針」で身を守ろうとするが、それはたんに外界と自分(たち)を隔てるためのものではなく、逆に外部の人間と彼らとが「人間という動物として、仲間として」つながるための道具でもあるのかも知れない。
おそらくこうした「嘘」は、それがどこか動物的であるが故に、多数者(外部の人間)から嫌われるのだが、実はそこに「言葉」という人間独特のものとされる道具の本質があるのではないか?
人間は、ハリネズミが(防御の手段としてはほとんど役に立たない)「針」を持っているように、「言葉」を持ち、「嘘」を言うのではないか。そしてそれを通して、本当は他者とつながろうと欲しているのではないか。


こうしたものとして見れば、「言葉」とは元来、私や私たちと他者とを隔てようとする構造的な暴力性(権力)を突き破る、それに抗うための、秘密の通路のようなもので、その意味でハリネズミの(針を持った)皮膚に似た「動物臭い」ものであり、だからそれは我々が抑圧以前の「人間=動物」として生き抜くための手がかりに満ちたものである、とも思える。
ロマの人々がハリネズミに自分を同化させ(ながら、それを食べ)ることの象徴的な意味も、そこに見出せるのではないだろうか?




さてこの本ではこの後、いよいよ捕まえてきたハリネズミをさばき、料理して食べるくだりになるのだが、写真入で、詳しく、ややユーモラスにリポートされている。是非読んでいただきたい。


ロマに対する排除は、最近もフランスでのひどい事態が報じられているが、この章ではイラクに暮らすロマの人たちの窮状も詳しく伝えられている。
フセイン政権下では、ロマの人たちは定住政策をとられたものの、手厚く保護されていた。多数派の人々による暴力から守るために、政府から警護の人員まで派遣されていたそうである。その背景には、定住させることでロマの人々を徴兵しやすいようにするという意図もあったらしいが、それでもフセインの統治下では、ロマの人々が安全で安定した暮らしを保障されていたことは事実だった。
それが、イラク戦争による破壊と、フセインの失脚によって激変し、現在は悲惨な状態に置かれているらしい。






ところで、先日読んだ『人生論』のなかでアランがハリネズミのことを書いていたのを思い出した。
さがしてみると、こんな文章だった。

さらに卑近ななじみぶかい例をとれば、terreurという語にしてからが、なかなかその全内容をうちあけない。horreurという語は、いっさいを言いながら、何も言わないのだ。だがここでは、生理学がおおいに語ってくれる。私は自分のなかに、ハリネズミの護身のような或る護身を感ずる。(「六三 自然な言葉づかい」より p224)


脚注によれば、語の基本的な意味としては、terreurは「感知されるはげしい恐怖」、またhorreurは「とりはだをたたせ、髪をさかだたせる肉体的感覚」ということ、つまり後者は「恐怖」に加えて「嫌悪の情」をも意味しうる言葉だそうである。

アラン 人間論

アラン 人間論