竹内好「近代の超克」その3 ナショナリズムと抵抗

きのう「抵抗」という言葉の解釈に関して書いたが、竹内好自身に関して言えば、この言葉はなんといっても名著『魯迅』の序章に書かれている「そう扎」(漢字を表記できないので、講談社文芸文庫などから出ている実際の文章に当たってください)という中国語との関係において考えられるべきだろう。
竹内は、『がまんする、耐える、もがくなどの意味をもっている』というこの中国語の単語を日本語に訳すことを拒み、魯迅の生き様を表す言葉として原語のまま本文に記したうえで、註のなかで『強いて日本語に訳せば今日の用語法で「抵抗」というのに近い』と、戦後に書いている。
この註の文章のなかで竹内が使っている「抵抗」という言葉は、具体的な政治的行動というよりも、心理的な状態をあらわす要素が強いものだとおもう。「そう扎」という中国語によってあらわされる心理と、「抵抗」という日本語によってあらわされる心理とは、互換可能でないと竹内はかんがえた。そこに竹内は自分と魯迅との間、また日本と中国との間の、少なくとも日本の一知識人である自分と中国の知識人や民衆との間の、翻訳不能な溝を見ていたのだろうというしかない。「そう扎」という言葉を、「抵抗」という日本語によって置き換えなかったところに、魯迅と中国に拘り続けた竹内の思想の、また特に彼のいうナショナリズムの精髄があるとさえいえるだろう。しかし、この精髄を見極めることは容易でない。



そこで「近代の超克」に戻っていうと、ここで使われている「抵抗」という言葉には、表面上そのような心理的なニュアンスはない。むしろそれは社会に対する具体的な実践(働きかけ)を示す語として用いられている。
だがまったく無縁だともいえないのは、論文「近代の超克」で吟味されている「抵抗」の可能性というものが、1959年の竹内にとって、日本の一人のナショナリストとして、中国の民衆とはじめて同じ位置に立って支配と戦いうるのではないかという予感のなかで見出されていたものだと思えるからだ。

41年、60年、05年

竹内によれば、日中戦争期の「抵抗」は有効な結果をもたらすことができず、座談会「近代の超克」における思想形成への最後の試みも失敗に終わり、日本は「総力戦」の時代に突入する。太平洋戦争の開戦である。
では、この総力戦の時代における「抵抗」はいかなるものでありえたか、またありうるのか、それが竹内の次の問いになる。

総力戦における抵抗の哲学は、戦争中に見出されなかったばかりでなく、戦後にもまだ見出されていない。

極論に思われるかもしれないが、ぼくは、2005年現在の日本の状況を、日中戦争から太平洋戦争による「総力戦」の時代に移行する直前の時期に、ほぼ重ねていいのではないかと思う。分かりやすく言うと、アメリカのイラクへの侵攻と自衛隊の派遣が、1941年暮れまでの日中戦争の全過程にほぼ対応する。
イラクでの親米政権の樹立が満州国の成立の過程に酷似していることは、ジョン・ダワー他が早くから指摘していた。満州国で行政上の実験の中心にいたのが安倍晋三の祖父に当たる岸信介であったことをかんがえると、あの安保条約締結の1960年をはさんで、戦前と現在の日本の状況はいろいろな点で奇妙に重なり合っているが、ここで重要なことは今日の日本はアメリカとのワンセットで国際社会に存在しているということである。
つまり、アメリカの単独主義的な戦争行動を支持した時点で、日本はすでに戦前と同じ道に踏み込んだわけであり、次には全体主義的な思想統制を伴う「総力戦」の段階しか残っていない。
だから、上記の竹内の文章は、いまわれわれに直接語りかけられている言葉だともいえる。違いは、59年に竹内が意識していた親米的な政治家はすでに死んで、その孫の時代になっているということだけである。

現在との相違点

竹内が、「総力戦」の時代の抵抗をどうとらえていたか、もう少し詳しく見ていこう。
「総力戦」の時代というのは、人々が、とりわけ民衆が、国家が押し付ける枠組みにおいてしかものを考えられなくなる時代である。今日の言葉で言えば、一言で「洗脳」となろう。そうかもしれないが、「洗脳」されてはいても、この時代の人々は近代国家の国民であり、戦争を行なう主体であった。こう書くのは、この人々の戦争に対する責任を問うているのではなくて、現代の日本社会の人々の意識とはやはり異なる点があったことを確認すべきだと思うからである。
竹内の「抵抗」論も、この「主体の時代」における全体主義を敵として想定したものなので、現在の状況にはそのまま当てはまらない面があるかもしれない。

公の思想との関係で各思想が定立されたのであって、まったくそれと離れた場所での思索は不可能であった。むろん、公の思想の裏側には逃避の場所はあった。しかし、逃避を肯んじない思想主体なら、公の思想にかかわらずに現実へのはたらきかけを放棄することはできない。それは総力戦の性質からしてそうなので、肉体が召集や徴用をまぬがれないだけでなく、精神も内側を戦争の思想によって占領されることからまぬがれていることはできなかったからである。

今日の日本が「総力戦」前夜であるとぼくは書いたが、このような強固な戦争の思想が、個々の「思想主体」を「占領」しているという社会では、いまの日本はないだろう。
全体主義化と思想の剥奪に二つのタイプがある、とかんがえるべきではないかとおもう。

竹内の考える「総力戦」期の抵抗

それはともかく、この時代において民衆の意識にどう働きかけるかを考えることこそが、抵抗を真剣に模索することだったはずだと、竹内は言う。上記の引用にすぐ続く次の文章には、あくまで「民衆」を重視し信頼するナショナリスト竹内の、戦時の抵抗についての考え方がよく示されている。

したがって、思想が創造的な思想であるためには、火中に栗をひろう冒険を辞することができない。身を捨てなければ浮かぶことができない。「国家」の総力を挙げてたたかったのは、一部の軍国主義者ではなくて、善良なる大部分の国民であった。国民が軍国主義者の命令に服従したと考えるのは正しくない。国民は民族共同体の運命のために「総力を挙げ」たのである。

このことは別に書きたいのだが、ぼくはこうした考え方が、ナショナリズムにおける唯一の反戦思想のあり方であるとはおもわない。ナショナリズムには、もっと別の可能性があるのではないかと漠然と思っている。
だが竹内には、そういう漠然とした「可能性」の議論に安んじてはいられない切迫した思いが、この論文を書いていたときにあったのだろう。それを竹内の限界と呼ぶとすれば、自分はその「限界」のはるか手前にしかいないのだという事実を、ぼくは恥じる。


総力を挙げて戦争を遂行するという場所に追い込まれた当時の日本の民衆に、働きかける方法の模索と実践こそが、竹内にとっての「総力戦」の時期における「抵抗」であり、「思想」であった。
何度も書いてきたように、竹内はその具体例を、『戦争中第一の抵抗書の一つに数えられる』中野重治の著作『斉藤茂吉ノオト』に見出している。
以前ぼくが論文「近代の超克」を読んでこの部分に接したとき、この戦時中の中野重治を擁護し正当化するかのような文章に無理があると感じたのは、この作家が転向後、戦争中にはむしろ積極的に愛国思想に同一化しようとした事実を知っていたからだ。
しかし、今回読み直してみると、この積極的な同一化の態度というのは、竹内の論旨からすると、必ずしも中野の「抵抗」の正当性を危うくするものではない。むしろ、中野は「民衆」と同じ場に身を置き、可能な仕方で民衆に直接働きかけようとしたことにおいて、「獄中不転向」を貫いた共産党指導部の活動家たちよりも、「抵抗者」として上位のことをなしえたのだ、というのが竹内の言いたいところであるのかもしれない。
中野自身の「転向」や「抵抗」に対する考え方が、彼自身戦後その共産党の中枢に入ったという事情もおそらく関係して、はっきり見定めがたいので難しいところだが、竹内の「抵抗」についての現実的なとらえ方というのはよく理解できる。
イデオロギーによる裁断よりも具体的な実践を、理念による啓蒙よりも民衆と同じ現実を生きることを、という思想家竹内好の特質が、よく現れているとおもう。

竹内的ナショナリズムの可能性?

ところでぼくは、ここで語られている中野の『斉藤茂吉ノオト』という著作を読んだことがないのだが、そのなかの、太平洋戦争時の「戦争吟」と呼ばれる短歌の「国民的汪溢」をほめたたえながら、その文学的構成が「総力戦」の時代に見合った高度な複雑さを実現していると述べる中野の文章を、竹内は高く評価して次のように書くのである。

戦争をくぐらなければ、具体的にたたかっている民衆の生活をくぐらなければ、いかなる方向であれ民衆を組織することはできない。つまり思想形成を行うことはできない。それが最低限の思想の必要条件である。戦争吟を、戦争吟であるために否定するのは、民衆の生活を否定することである。戦争吟を認め、その戦争吟が過去の戦争観念にたよって現に進行中の戦争の本質(帝国主義戦争という観念ではない)を見ることから逃避している態度をせめ、戦争吟を総力戦にふさわしい戦争吟たらしめることに手を貸し、そのことを通して戦争の性質そのものを変えていこうと決意するところに抵抗の契機が成り立つのである。「侵略戦争反対」を便所に落書きするとか、「英機を倒せ」というシャレをはやらせることは、抵抗ではなくて、むしろ抵抗の解体である。思想を風俗の次元にひきおろすことである。

「戦争の性質を変えていく」という意味が、やはりよく分からないが、ある意味で戦争の加速に手を貸すことによって国家の力を解体してしまおうともとれるこの物言いは、唐突だがドゥルーズ=ガタリやポール・ヴィリリオ戦争論、テクノロジー論を思い出させる。
だがそれよりも重要だとおもうのは、最初の部分で言われている「民衆を組織する」とか「思想形成」という言葉は、毛沢東を意識した言葉使いではないのか、ということだ。
竹内は、毛沢東が中国の民衆に対して行った「抵抗」のための働きかけの方法論を、戦前の日本の民衆にもそのまま当てはめられるとかんがえたのではないだろうか。
竹内は、決して「左翼」でも「イデオロギーの人」でもない。だがそれゆえに、その竹内にとっての毛沢東もまた、「左翼」でも「イデオロギーの人」でもなかったはずである。ではなんだったかというと、民衆の「抵抗」の組織者・守護者と映ったはずだ。
日本の民衆と中国の民衆とを、イデオロギーの相違を乗り越えて、共通の存在として見出す視点が、竹内にはあった、ということではないのか。おそらく、1941年にも1959年にも存在したアメリカという巨大な敵の存在が、この視点を可能にしたのだろう。


ぼくの仮定があっているとして、竹内におけるこの二つの国の民衆の同一視が正当なものかどうかは分からない。
だがそれよりも興味があるのは、「抵抗」のための闘争、さらには条件付の「戦争」の肯定ということを媒介にして、竹内においてはナショナリズムが国境を越えて拡大しているように見える、むしろインターナショナリズムに接近しているかに見える、ということである(しかも竹内の場合、ここにイデオロギーによる連帯の回路が存在したわけではないのだ。)。
「闘争のナショナリズム」にも、やはりこうした広大な可能性があるのだろうか。
竹内好が体現したナショナリズムの性格と、人間にとっての「闘争」あるいは「戦争」をどう捉えるべきかという問題とは、ぼくにとっては依然として大きな謎だ。


ということで、まだもうちょっと続きます。