竹内好「近代の超克」その1

竹内好の論文「近代の超克」を再読したので、感想を簡単にメモしておきます。


ぼくの手元にあるのは、筑摩書房現代思想体系というシリーズの4、「ナショナリズム」という巻である。この巻の編集は吉本隆明
初版1964年となっているものの第6刷で、68年に出たものらしい。
この本には竹内のほか、山路愛山高山樗牛徳富蘇峰中野正剛らの論文が収められているうえに、吉本による解説「日本のナショナリズム」(分かりにくい)が付されている。
ぼくはこの本を、近所の古本屋で100円で買った。本もきれいだし、掘り出し物だとおもう。


さて、竹内の論文「近代の超克」だが、1959年発表となっている。この本に収められた論文のなかでは、吉本による解説を除けば一番新しい。というか、それ以外はすべて戦前の文章なのだ。
この点にすでに、戦後の日本の思想のなかで「ナショナリズム」なるものがどのような位置におかれてきたかが垣間見られるであろう。
それはともかく、59年というと、60年安保の前の年だ。それに関連して思うこと。
ひとつは、以前にぼくがこの論文を読んだとき、この論文で竹内が一番力を入れているのは中野重治の戦時中の仕事(『斉藤茂吉ノオト』)を「抵抗」として位置づけることではないかと感じた。そのときには、これはいささか無理があるのではないかと思えた。
そのことは後で書くことにして、59年というこの時点で、竹内が特に中野の戦時中の仕事を賞賛するような形で論陣を張ったのには、政治的な意味があったのではないだろうか。つまり、ナショナリスト、「国士」といわれた竹内が、前年の58年に日本共産党中央委員に選出されたコミュニスト中野重治に対して安保を睨んだ共闘を呼びかける、この論文にはそういう意味があったのではないか。
また、竹内はこの論文で、アジアの民衆に対する連帯の感情を持つことによって、アメリカの支配に対する日本のナショナリズムに実質を与えることを主張しているとおもう。60年安保前夜の、それがナショナリスト竹内の思想であり、論文「近代の超克」の情勢論的な意味だった。ここで竹内は、自分の中国に対する意識を、中野の朝鮮に対する思いに重ね合わせ、戦前の知識人たちの敗北の大きな原因として彼がこの論文で位置づけた「アジア認識の浅さ」の克服に取り組む共闘の可能性を、他ならぬ中野の存在に託したという部分もあるのではないか。竹内にとっては、中野以外に組めそうな人があまり見当たらなかったのではないか、ともおもう。
もうひとつ、59年という時点に関して言うと、この論文発表時の竹内にとっての「主敵」は誰か(アメリカ、岸は別にして)、ということがある。この論文では、最終的には保田与重郎が批判の俎上にあがっている。また、亀井勝一郎や「京都学派」の何人かの哲学者も問題にされているが、59年当時においては、やはり小林秀雄の存在が大きかったのではないだろうか。だから、この論文の中で、開戦当時の思想界の状況分析において、竹内が保田を小林よりも相対的に重要な役割を担っていたと見ているのは、そのまま受取れないところがあるのではないかとおもう。「小林などはたいしたことなかった」と言うことによって、竹内は59年当時もっとも重大な敵と考えていた小林秀雄のカリスマ性を引き下げようとしたのではないか。
深読みかもしれないが、以前読んだときにはあまり気にかけていなかった論文の発表時期を考慮にいれてみると、そんなことが思い浮かぶのである。


論旨に関して、以下思うところをおおざっぱに。
この論文で論じられている対象は、もちろん太平洋戦争開戦の年、1942年の秋に雑誌『文学界』に掲載された名高い同名の座談会「近代の超克」である。
竹内によれば、この座談会が意味するところがなんであるのか、きちんと整理されてこなかったために、1959年の現在、「近代の超克」と曖昧に呼べるような思想が復権してきている。だから、この座談会そのものに関して具体的な分析を行う必要があるのだ、というのがこの論文執筆の意図であるらしい。
竹内にとって、この思想としての「近代の超克」の復権というのは、軍国主義の復活といったことではなくて、アジアとつながるようなナショナルな根を持たないポスト近代主義の思想の風潮ということだろう。それが日米安保の是認や、戦後の経済優先の日本社会のあり方への自己肯定と結びついている。やはり竹内にとっての敵は、岸であり小林秀雄、ということだったのではないかとおもう。要するにやがて来る「60年代の日本」を批判しようとしていたかに、今日の目からは見えるのだ。


さて、座談会「近代の超克」についての竹内の総括は、論文の前半においてすでに示されている。

「近代の超克」の最大の遺産は、私の見るところでは、それが戦争とファシズムイデオロギーにあったことにはなくて、戦争とファシズムイデオロギーにすらなりえなかったこと、思想形成を志して思想喪失を結果したことにあるように思われる。

竹内はこう書くが、ではもしこの「思想形成」がなっていれば、つまり「戦争とファシズムイデオロギー」たりえていたなら、竹内はそれにどのような評価を下したのだろうか。
こういう疑問は残る。これが、この論文のやや分かりにくい点である。


以下、他日に続きます。