『秋風秋雨人を愁殺す』その2 民族と革命

きのうの続き。


はじめに、少し時事的なことに触れたい。
ここで語っている小説のなかには、清朝末期に日本に留学していた人たちによる中国の革命運動の様子が詳しく述べられている。そのなかに、魯迅の弟の周作人が書いていることとして、後でふれる光復会系の人たちが発行していた「民報」という雑誌を日本政府が発行禁止にしたときの話が出てくる。
これは、当時の清国政府の要請で行われたわけだが、その理由は表面的には、発行人の名義の変更を警視庁に報告しなかった出版法違反だったという。いまでいう別件逮捕のようなもので、これを糸口にして罰金未払いによる関係者の懲役刑へと持っていこうとしたらしいのだ。
いま、これと似たようなことが日本の社会で頻繁に起こっている。何度か書いた立川のビラ配布弾圧事件ばかりでなく、5日にはこんなことも報じられたが、大阪でも先日、平和運動をしている人たちが「詐欺」容疑で府警に逮捕されるということがあった。借りていたマンションの契約内容と異なる目的に使用していたことが「詐欺」に当たるという警察の言い分らしいが、運動関係者を逮捕しおさえこもうという意図があることは明白だ。4日には、この人たちと5年以上も前に共謀を図ったという理由で、さらに「詐欺」による逮捕者が出た。
口実をでっちあげ、別件逮捕によって政治的に都合の悪い人たちを逮捕・弾圧しようという公安当局のやり口は、決して過去のものでなく、いま現在横行している暴力である。こういう現実に無関心であっては、誰もが不幸になるとおもう。


この件で、もう少し詳しいことが知りたい方は、メールください。


さて、きのう書きかけたことだが、ぼくがこの小説を読んでいて思ったことの一つは、自分は辛亥革命というものの性格を、いままで十分に理解していなかったということだ。
ぼくは正直、義和団事件太平天国の乱とどっちが先であったかはっきりしないぐらいの歴史音痴だ。辛亥革命についても、孫文のいわゆる三民主義という思想についても、詳しいことを知らない。
それで、魯迅が作品集『吶喊』(この字、ワードで出るんだねえ)の「自序」に書いている有名な「幻燈事件」のことにしても、あれは日露戦争のときに日本の官憲に中国人が首を切られる写真を見て、中国人の学生たちが周りの日本人と一緒になって笑っているのを見て魯迅が憤るという話だが、これは日本との関係が重要なのだろうと思っていた。
つまり、抑圧者であり侵略者である日本人に同胞が首を切られる場面を見て、その日本人たちと一緒になって喜んでいる中国人学生たちのネーションとしての意識の薄さに怒っているのだと思っていたのだが、これはぼくの理解が不十分だったのではないかと、今回思った。

徐京植氏の解釈への疑問

魯迅のこの文章については徐京植が『「民族」を読む』という本のなかで論じていて、ここでは魯迅民族意識というものを、周囲にいる日本人の学生たちの態度に対する魯迅ディスコミュニケーションの思いと重ねて読む必要があるといっている。この解釈は、いま読むと魯迅の心情を徐京植自身の体験にひきつけてとらえすぎではないかという気がする。
このときの魯迅にとっては、日本人の意識や態度などはさして重要ではなかったとおもう。
はっきり言えば、それどころではなかったはずだ。魯迅の頭の中には、このとき中国の民衆のことだけがあり、彼らを日本を含む列強の支配から解き放つために強固なネーションを形成するという、当たり前な念願だけを胸に抱いていたのだとおもう。
『秋風秋雨人を愁殺す』のなかにも、日露戦争に出征する軍人たちを見送る市民の熱狂を目にした秋瑾が、自国の雑誌に書き送った文章が訳されて載っているが、彼女も魯迅と同様に、その熱狂のなかに混じって爆竹を鳴らしたりしている中国の商人たちの姿に慨嘆している。そこから読み取れるのは、よくも悪しくもナショナリズムの情熱であり、日本の軍国化と国民的熱狂は、むしろ羨望の対象としてさえ描かれている。それは、彼ら、彼女らの限界であると同時に、思いの切実さの証だ。
徐京植が言うような「日本人とのディスコミュニケーション」を気に病んでいるような余裕は、不幸にして彼らにはなかったとおもう。
だが、ぼくがここで言いたいのは、そのことではない。

民族革命としての辛亥革命

辛亥革命を志した中国の若い革命家、革命的な青年たちの多くにとって、その民族意識が対峙するべき当面の敵は、諸外国ではなく、まず清の王朝そのものであった。このことは、清朝満州族の王朝だったことと切り離せない。辛亥革命が民族革命でもあるというのは、現場で奮闘し死んでいった多くの漢民族の革命家たちにとっては、まずこの意味においてだったのだ。この小説から読み取れるのはそのことで、どうもここのところが、ぼくの意識にはこれまでちゃんと入っていなかった。
この時期の中国の革命についてかんがえるとき、どうしても「諸列強VS中国」とか「王朝VS共和国」という構図だけになってしまって、満州族の支配に対する民族的な闘争という側面が見出されにくい。だが、当時の革命家の多くは、中国が列強の言いなりになる弱い国であることの理由を、異民族の王朝である清朝の存在に求めていた。だから、この王朝を打倒し異民族支配に終止符を打つことと、中国が列強のいいなりにならない強いネーションになるということとは、市井の、また無名の革命家たちの意識においては、ぴったりと重なっていた。それが、きのう少し書いた、「光復」ということである。


この小説を読んでいて非常にショッキングなのは、秋瑾たち革命家の文章のなかに、自分たちを支配する満州族に対する激しい憎悪の念が頻繁に示されていることである。特に光復会系の革命家たちにとって、革命の大義は「排満興漢」であった。満州族の支配を排除して、漢民族の国を興すこと。これはだが、支配階層(王朝)との戦いという、階級闘争のようなものに還元できる思想・感情ではない。「革命」という中国語は、ここではそのような意味にだけ使われているのではない。
秋瑾と同時期に処刑された有力な革命家徐錫麟という人の遺書には「満族絶滅」の文字がはっきりと記されているという。こういう意味での民族的な表現は、秋瑾をはじめ、当時の革命家の手紙や文書、発言の記録には頻繁に見られるようである。実際に弾圧してくる支配層が満州族の人たちを中心にしたものであり、辮髪など日常の風俗に至るまでその支配を痛感することは常であったろうから、反権力の表現がそうした民族的憎悪の語によって示されることは当然だといっても、その表現の過激さは、やはり今日のぼくの目には衝撃的に映る。
武田泰淳は、こうした革命家たちの表現に関して慎重に、満州族の人々一般を指したものではないだろうということをいっているが、言葉の激しさに変わりがあるわけではない。

異民族支配の実感

自分はここが分かっていなかったのだということを、この小説を読んで痛感した。
一口にいうと、この時代の中国における民族意識というもの、革命的な民族意識というものを、甘くかんがえていた。民族意識というのは、また革命というものはといってもいいかもしれないが、奇麗事ではないのだ。
もちろん、漢民族うんぬんという民族概念自体が、近代の産物であるという見解は当たっていよう。だから、「漢民族」という自己意識が先にさほど強くあったわけではなく、列強の侵略や近代化の荒波の中で、はじめて満州族に対する排他的な民族意識が芽生えたのだという説明も、理論的にはその通りであろうとおもう。
だが、現実の革命や抵抗の実践において、こうした民族的な自己意識が果たす強い役割に対する実感が、やはりぼくには欠けていた。これは認識というよりも、感覚の問題だろう。
なぜぼくには分からなかったのか。これは安易なことを言ってしまえば、異民族に支配されたことのない国や民族に属するものとして育ってきた者の限界があるのではないか。
民族概念についての構成主義的な説明によって啓蒙をいくら行っても、実感の部分で、どうしてもこれを理解しきれないところがのこる、理解から零れ落ちるものがある。そういうふうにおもう。

光復会という団体

また、辛亥革命についてのぼくの理解が不十分であったことの別の理由をかんがえると(というか、根本的にはぼくの勉強不足が大きいのだろうが)、おそらく孫文にしても、その後の中華民国中華人民共和国の指導者たちにとっても、その後の革命の進行と拡大のためには、辛亥革命のこの要素というのは、なるべく薄めたかっただろう。だから、事がなってしまった後では、なるべくそこには触れないような歴史記述なり理論形成が行われてきたのではないか、とおもう。
ここで光復会という勢力の性格について、小説に書かれていることからふれておくと、これは陶成章、章炳麟、蔡元培、それに秋瑾ら浙江省という地方出身の人たちによる革命団体といってよいものだったようだ。この地方の出身者たちが、辛亥革命には大きな役割を果たした。
1905年に光復会など三つの革命団体が合流して同盟会という大きな組織を作る。きのうぼくは同盟会と光復会という二大組織があったみたいに書いたが、これは誤りで、ただ同盟会の成立以後、同盟会の中枢を握った孫文たちの思想と方針に対して、光復会系の革命家たちには小さからぬ不満があったということである(ちなみに、先述の徐錫麟は、最後まで同盟会への参加を拒んだまま刑死したらしい)。
このへんの事情について、泰淳はこう書いている。

同盟会のインターナショナリズム、光復会のナショナリズムという具合に、差別するのはひかえるとして、武力闘争一てんばりの光復会に地域的のせまさがあり、同じ武装革命を目がけても、同盟会の方には大きな計画をゆっくりすすめる、組織としての永続性があったことはまちがいない。同盟会と光復会は決して互いに排斥したり分裂したり、そんな仲間うちのいざこざは起こさなかった。ただし、それぞれ二派の会員のタイプというものが、多少ともあったかもしれないな、と私はひとり想像している。(p237)

これはしかし、実情とはやや違うのではないか。
孫文に代表される同盟会の中枢の思想というのは、後の国民党につながるナショナリズムであり、光復会の方はネーション以前の地域主義だったのではないかと、ぼくには思える。
日本とはまったくちがった中国という複雑で広大な国土において、ネーションを、ナショナリズムをどう作り出すかという課題が、特に孫文のような人にはあっただろう。つまり、いかに「国民」を作り出すか。光復会のような地域的な革命団体は、孫文らの方向性とは相容れない部分があったに違いない。「排満興漢」の思想は、孫文たちが構想したナショナリズムとは、ずれていた。
革命運動内部での孫文たちの一派と、光復会の急進的な革命家たちとの微妙な対立や齟齬の大きな理由はこの点にあったとかんがえられるのだ。


いま「ネーション以前の地域主義」と書いたが、これが「以前」といえるのかどうか、微妙なところであろう。だがそれは、国民党や中国共産党の国家モデルとは、やはり相容れない部分を持っていたのではないだろうか。今日の中国の現状をかんがえるにあたっても、この地域主義の強烈さもまた、ぼくには実感しがたいことのひとつである。
いずれにせよ、こうした事情が手伝って、秋瑾をはじめとした光復会系の革命家たちの行動は、歴史の中で重視されてこなかった。武田泰淳には、そのことに対する強い不満があったのだろうとおもう。それが、この作品の執筆につながった。
この武田の感情をどうとらえるかは、また別の問題であろう。