ライブドア問題におもう

上に、強制労働の犠牲者の遺骨に関する企業の態度について触れたが、日本の企業の体質というのは、これからよく考え直さなくてはいけない重要な問題だ。「内部告発」というテーマにおいても浮かび上がっていることだし、いま話題になっているIT企業によるメディアの買収の動きにしても(数年前にも、よく似たことがあったが)、これまで資本を独占して経営を牛耳ってきた日本のメディア・グループというものが、どういう体質だったのかを問うことが、とても大切だとおもう。
外資がどうのとか、新しい金融資本主義がよくないという以前に、多くは戦前から支配を続けてきた旧来の日本のメディア資本のあり方が問われなければいけない。朝日でも産経でも、もちろんNHKでも、そのことは免れない。同じような形態と歴史をもつ鉄道資本(西武など)の閉鎖性は批判しておいて、自分たちだけ頬かむりしているわけにはいかないだろう。

いろいろなところで紹介されているこのインタビュー記事を読むと、少なくともインターネットや新聞に関する方法論としては、ライブドア社長の堀江という人はすごくまともなことを言ってるとおもうのだが、駄目なのかなあ?
もちろん、ぼくがもし「市民記者」というのになったら(堀江自身も言っているが、韓国の「オーマイニュース」を意識した人気投票による紙面づくりを目指しているようだ)、ぼくの書く文章などは、確実に堀江の言う「ゴミみたいな記事」ということになるだろうが、ゴミはゴミ屋をやって売ればいいだけのことではないか。権威や資本や、まして政治権力との癒着によりかかる必要はない。要は、それだけの気概のある書き手と、権威に左右されない優れた自立的な読み手がどれだけ居るか、という話だろう。ジャーナリズムとは、もともとそういうものではないかとおもう。
たしかに、堀江が目指しているのは、「オーマイ」のような政治変革とか「ネット民主主義」を目的としたものではない。また、マスコミを退社した革新的なジャーナリストたちが立ち上げた「オーマイニュース」と、「ITバブル」の申し子といわれる若手の資本家が仕組もうとしているメディアを同列に論じるべきでないという意見もあろう。
しかし、日本も韓国も、マスコミが守旧的な資本によって牛耳られてきた現実があり、この体質が、報道のみならず、日本の社会のあり方を大きく歪めてきたと、ぼくもかんがえる。その閉鎖性と権威性の打破を、ネットや「人気投票システム」の導入によって図ろうとしている点は、どちらの国も同様であろう。
「日本の民度で人気投票は危険だ」という意見があるかもしれないが、今のマスコミに操作されているよりは危険ではないかもしれない。仮にライブドアニッポン放送やフジテレビを買収した結果、今以上に右派的なメディアになったとしても、それは現在の資本が行なっている情報の操作とは異なるものになるだろうと思うのだ。少なくとも、そこからしか始まらないものがある気がする。
いずれにせよ、もう少し大衆を信頼してもいいのではないか。


今回の件がどうなるにせよ、日本のマスコミがジャーナリズムであり続けるためには、これから特に資本や経営の形態を決定的に変えていく必要があるとおもう。