暴力性を考え直す その3

『「運命のように彼らはやってくる、原因も理由もなく、遠慮会釈も口実もなく、・・・・。」』

千のプラトー*1の第12章、「遊牧論あるいは戦争機械」と題された章に引用されているこの一文は、カフカのテキスト「一枚の古文書」の一節ではないかとおもっていたのだが、手元にある『カフカ寓話集』*2にあたってみても、おなじ文の異なる訳だとおもえる部分をみつけられなかった。
だが、ドゥルーズ=ガタリという書き手とカフカというもう一人の書き手とのむすびつきがきわめてふかいものであることは、『千のプラトー』のなかになんどもカフカへの言及があることからもうかがえるし、なんといってもドゥルーズ=ガタリには『カフカ――マイナー文学のために』*3と題されたいう有名な著書まであるのだ。
上の文章につづいて引用されている次の一節は、「一枚の古文書」のものであるとかんがえてよいようだ。

『「いかにして彼らが首都にまで侵入してきたのかはわからない。だが、彼らはここにいる。朝がくるたびにその数は増えていくように思われる・・・・。」』(p409)(以下、引用は全て『千のプラトー』から)

「戦争機械」という概念はなぜ使われるのか

ドゥルーズ=ガタリ(以下、慣例にならいDGと略す)は、国家装置の外部として「戦争機械」という特異な概念を提示する。戦争は通常、国家の存在とむすびつけてかんがえられるので、DGのこの提案はずいぶん奇妙なものにおもわれるだろう。
まずこの点から説明しておくと、DGは国家による戦争を、国家が戦争機械という外部を自分の手に奪いとってしまった結果だととらえるのである。つまり、戦争という行為の本質、または可能性を、国家の外側に見いだす。これは、「戦争という悪」が、国家よりも先にあるという意味ではない。
「可能性としての戦争」が、国家装置の論理をこえる「突然変異」の流れを引き起こす力を持っているというのが、DGの考えなのだ。「突然変異」という言葉は、国家が使用する系統的な変化や進化の論理に対抗する意味で用いられているとかんがえていいだろう。

戦争機械が変異を起こす能力を失ったとき、残された唯一の目的が戦争なのだ。したがって戦争そのものについて、こう考えなければならない。戦争機械が国家装置の手中に帰したにしろ、さらに悪いことに戦争機械が破壊にしか役立たない国家装置を建造したにしろ、とにかく戦争は戦争機械のおぞましい残滓にすぎないのだ、と。』(第9章 p263以下)

要するに、国家が抑圧しているものは、「変異」の能力であって、「可能性としての戦争」(ここではそれを「可能性としての暴力」の同義語とかんがえておく)が体現しているのは、この変異の能力に他ならないということになる。
ここで、変異や「生成変化」についてのDGの思想の全体像にはくわしくふれられないが、簡単にぼくが理解しているところを書いておくと、DGは人間と生物、無生物、人工物をも含めた物質的な宇宙の全体を、みずから発展(展開)していく力をもって運動する一個の巨大な連続体としてとらえている。この一元論的な体系は壮大で精緻にできているが、それ自体としてはもちろん神秘主義的なものだ。ただ、そこから導き出されるさまざまな実践的な議論は、非常に有益な示唆を多くふくんでいる。『千のプラトー』は、ぼくが知るかぎり、もっとも面白い「現代思想」の本だ*4

ところでこの大きな連続体の動きを、国家などの権力装置がぼくたちに植え付けているフレームをはずしてみるならば、分子レベルでの物や人間の連関と変化の姿が見出されるとDGは言う。人間同士に関していうと、互いに自分の社会的な所属(属性)をこえて混じりあい国や制度の枠組みをこえて動いていくような生のあり方が、本来的なものとしてここで見出されるはずだというわけだ。DGの政治的な戦略というのは、簡単にいえば、この変化の流れを加速させていくことが「解放」につながるということである。この分子レベルでの世界の変化のあり方を表現する概念が「変異」であって、国家装置はこの本来的な世界の姿(変化のあり方)を覆い隠し、先述の大きな連続体を見えにくいものにしてぼくたちをそこから切り離してしまっていると、DGはいっているのである。

DGとベンヤミンの暴力論に共通する疑問点

ところで、この「変異」によって説明されるような変化と進化の姿、それは国家や「人間」にかかわる思考の枠組みをこえるような、より高次な生命の観念と結びついているようにおもわれる。これは、先にベンヤミンに関して、「たんなる生命」の価値を相対化するような立場に立つことで「神的暴力」を正当化しようとしているのではないかと書いたことを思い出させる。
じつは、DGとベンヤミンとが、暴力や戦争に対する積極的なとらえ方において似ているのではないかと思えるのは、この点なのだ。そのことを、先に少しのべておこう。
暴力を考えることにおいて、『千のプラトー』のDGと『暴力批判論』のベンヤミンの共通点は、暴力を国家的な仕組みのなかから救済し、その純粋な状態を可能性として描き出そうとした点にあると思う。彼らのいずれにおいても暴力は、国家装置を解体する可能性をもつ、根源的な力として考えられている。
世界の根底をなす力の、現実世界における呼び名が、「暴力」であるといってもいいかもしれない(そう考えると、両者に対するニーチェの影響が想像される)。
ところがDGにおいてもベンヤミンにおいても、国家的な仕組みの外側にあるものとしての純粋な暴力というテーマは、個体的・現実的な「たんなる生命」(ベンヤミン)の価値を相対化しうるような、より高次の生命の観念と結びついているとおもわれるのだ。この観念をみとめることによって、「純粋な暴力」は、その現実の「血の匂い」を免罪されているようにみえる。
このことは、暴力に、社会の仕組みに相同的あるいは従属的でないポジティブな意味合いを認めようとすれば、不可避的にホーリズム的な思想に近づくということを意味するのだろうか。

「戦争機械」とはどういう概念か

 では、DGが国家装置の外部として提出しているこの「戦争機械」というのはどういう概念だろうか。「機械」という語は、彼らの本では特別な使い方をされている語で、上記の大きな連続体がその「運動」を現実の世界の中に展開し世界を変化させていく具体的な仕組みのことを指している。ここでは、国家の存在に対立するものとしての遊牧民の歴史上の行動が、そうしたポジティブで根源的な力の具体的なあらわれとしてとらえられ、国家に戦いを挑んで移動していった歴史上の遊牧民たちが「戦争機械」と呼ばれているのだ。
 DGによれば、「戦士」とは国家の論理の反対に位置する存在である。

『戦士の独自性・奇矯性は国家の観点からは必然的に否定的形態のもとに現われる。(中略)戦士とは、軍務さえも含めたすべてを裏切りうる人間、さもなければ、何も理解しない人間なのである。』(p409)

DGが、国家的な観点にとっての「他者」として、「戦士」を、すなわち「戦争機械」をとらえていることが理解されよう。
さらにDGは「戦争機械」という語を、歴史上の遊牧民の存在や、戦争や軍事といった事柄からも切り離し、国家的な思考の枠組みをこえる「外部性形式」に直接むすびつけて使っているため、『千のプラトー』でのこの部分の論の対象はきわめて多岐にわたっているのだが、いまは具体的な暴力(もちろん戦争を含む)がDGの思想のなかでどのようにとらえられているかを確認しようとしているわけだから、ここではそれにふれる必要はあるまい。

「戦争機械」はなにを実現するのか

重要なのは、DGが、「戦争機械」の歴史的な形象である遊牧民を、どのような「運動」を世界のなかに展開するものととらえているかということだ。つまり、先述の「大きな連続体」の動きを、現実の世界のなかにどんな仕方で実現するものとかんがえられているのか、ということである。
これについて、DGは「平滑空間」という概念を提示する。これは非常につかみづらい概念なのだが、遊牧民の生活の場である草原や砂漠や氷原のイメージで語られている。それは国家による利用が不可能な不毛な空間であり、人や物質の移動の場でしかありえないような空間だ。「戦争機械」は、この「平滑空間」を拡大することを目指していて、国家を打ち倒して世界全体をこのような草原や砂漠に変えようとするものだと、DGは言うのである。
次の描写は非常に感覚的なものだが、DGが「国家の外部の空間」というときに、どういうイメージを抱いていたのかを知る手がかりになると思う。

『天と地を分かついかなる線もなく、介在する距離も遠近法もなければ輪郭もなく、視界はかぎられているものの、もろもろの地点や対象の上にではなく、様々な此性つまり諸関係のさまざまな集合(風、雪や砂の移動、砂の動き、氷の割れる音、砂と氷の触覚的性質)の上に成り立つ極めて繊細なトポロジーがそこには存在し、それは視覚的というよりもむしろはるかに音響的空間であり、触覚的、あるいはむしろ「視触覚的」haptique空間である・・・・。』(p438)

DGが、遊牧民という形象に託して語ろうとした「国家の外部の空間」というものは、じつはこうした世界である。それは国家の視線から見れば収奪するべきなにものも見出せない不毛の大地なのだが、あらゆる移動と変異(変容)の可能性が、つまり国家装置の内部にいる人間にはみえなくなってしまったような生の可能性が、内包され、そこに生きるすべての存在に対して(もちろん、われわれに対しても)開かれているような空間だ。
DGは、「戦争機械」の本質は決して戦争そのものではなく、「平滑空間」の拡大であるというが、それはたんに国家装置を瓦解させて世界を不毛の大地に変えるという破壊的な運動ではなく、このようなほんとうの意味での生の可能性を開く空間を創造していく運動としてとらえられているのだ。
これは、DGの思想のもっともポジティブな側面である。
ぼくはここでは、DGの考え方にたいしておおむね批判的だが、なにはともあれ彼らがけっして「破壊」や「否定」に与する思想家ではなく、「創造」の思想家であるという事実は、ここで強調しておかねばならない。

DGの暴力の分類

ところで、ぼくはこの一連の文章では「暴力」について考えてきたはずだが、ここでDGが語っているのは暴力一般ではなく「戦争」についてである。ベンヤミンは、「根源的・原型的な暴力としての戦争の暴力」という言い方をしているが、DGがこの二つの事柄についてどうかんがえているか、みておく必要があるだろう。
これについて、『千のプラトー』の第13章では、暴力の体制が四つに区分されている。すなわち、闘争、戦争、犯罪、警察の四つである。これは、じつに面白い分け方だ。
まず、「闘争」は「原始的暴力の体制」であって、「その都度その都度の断続的な暴力の体制」であるといわれている。これは、帝国や国民国家といった国家装置の存在以前のところで見出せる暴力といえるだろう。「戦争」は、本来的には「国家装置に向けられた暴力の総動員と自立化を意味する」とされ、歴史的にはチンギス・ハーンなどの遊牧民の組織が例にあげられる。「犯罪」は、「非合法の暴力」、もつ「権利」のないものを奪うことと定義されるのだが、いうまでもなく「非合法」かどうかを決めるのは法であり、国家だ。
そこで4番目の「警察」ということになるのだが、詳しく言うと「国家警察または法の暴力」である。これは奪う「権利」を制定しながら奪うという暴力であり、

『これは構造的で体制に一体化された暴力であり、あらゆる直接的な暴力に対立する。』(p504)

と説明されている。「警察」としての暴力とは、決して直接的な暴力ではなくて「法の暴力」であり、「誰が、何が暴力的なのか」を決定してしまうこの法の力こそが、社会におけるもっとも重大な暴力にほかならないというのが、DGの言いたいところだろう。

『こうして国家は、暴力とは「根源的」なもの、単なる自然現象であると言い、世界に平和を君臨させるために暴力的な者、「犯罪者」、原始人、遊牧民に対してだけ暴力を行使する国家は、暴力に対して責任を負わないと言いうるのである。』(同上)

この4分類からかんがえると、最後のものが国家装置の暴力であり、他の三つは、それとは非常に異なっている。むしろ「犯罪」や「戦争」といったものの性格づけは、この四つめの国家装置の暴力に影響されているところが大きい。ぼくは最初の「闘争」というのは、犯罪にならないような個人間の暴力の行使もここに入るのではないかとおもうのだが、これと「犯罪」とを分かつのは、「警察」(法)という暴力の作用だということになるだろう。
「戦争」については、先にものべたように、国家装置がその力を所有すること(軍事化)によって、「戦争機械」は実際の戦争による破壊をもたらすというのが、DGのかんがえである。ここから分かってくることは、DGが暴力そのものについて否定的には考えていないということ、むしろ直接的でない国家による構造的な暴力を大きな問題としてとらえていることだ。直接的な暴力は、それ自体は批判の対象にはされないのである。

概括すると、DGは国家の構造的な暴力(装置)が、暴力というものを法の内と外にふりわけ、その本来性(可能性)を見えなくしていると考えているようだ。
DGにおいて、「戦争」という暴力の形態が特にクローズアップされるのは、それが本来的には「国家装置に向けられた暴力」だとかんがえられているからである。ぼくが考えている文脈にあわせて言うと、「可能性としての暴力」と「国家による構造的暴力」とがどう結びあうのか、後者は前者をどう自分のものにし、それがもつ「変異の力能」という本来の可能性を奪い取ってしまうのかということが、ここで明らかになると考えられているからなのだ。

DGの思想の危険性

ところで、「国家の暴力」についてのこのDGの考え方は、簡単に承認できるものではない。軍事力の行使も、警察力の発動も、その直接性を非難されるのではなく、それが法や制度にもとづいているからこそ危険だとされているのだから。つまり、法や制度による構造的暴力を重視するあまり、その枠をはみだして行使される直接的暴力をあまり問題にしていないようにおもえるのだ。
国家というものの危険な性格を告発しているのはいいが、たとえば警察や軍隊が「非合法」に行なう暴力行為は、このかんがえ方だと批判されない可能性がある。
実際、DGという思想家には、本質的にこうした危険性があって、『千のプラトー』でもファシズムに関する分析は、自分たちの思想がもつ両義性を強く自覚したものになっているとおもう。


DGの思想は国家を批判できるだろうか?

第12章に、次のように書かれている。
>>            
『戦争機械から戦争が必然的に導かれるのは、戦争機械はそれ自身の積極的目標に対立する(条理化の)勢力としての国家と都市に衝突するからである。(中略)アリストテレス風に言えば、戦争は戦争機械の条件でも目標でもないが、戦争機械に必然的にともなうあるいは戦争機械を補完する、と言えようか。』(p472)

*1:

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

*2:

カフカ寓話集 (岩波文庫)

カフカ寓話集 (岩波文庫)

*3:

カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)

カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)

*4:DGは、本というものは、独立して孤立した存在であるより、社会と連結して欲望を生産する「機械」であるべきだとかんがえているが、この本はその理想を見事に実現したものだといえるだろう。