「暴力性」を考え直す

このブログの最初のところで、ぼくは自分のこれまでの生き方や生活態度が根本的に暴力的・権力的(この二つの語をとりあえず並置した)だということを書き、その暴力性や権力性は「周囲の社会」が有する暴力性にぼくが「従属・同調」しているために生じる、いわば「周囲の社会」(広く言えば「近代」以後の人間の社会)と相同的なものと捉えるべきだろうということを書いた。そして、そこから類推して、一般的に現代の人々、特に若い人たちのなかにあると思われる「否定的な感情や衝動」を、同じように「周囲の社会」全体と相同的なものとして捉えることを提起した。
暴力性と権力性という二つの語を無自覚に併記していることも問題だが、さらに「否定的な傾向や心理」と暴力性(及び権力性)とを、ぼくがまぜこぜにして考えていたことが、ここまでで分かる。この曖昧さを確認しておこう。
10日の文章では、現代の日本の若い人たち心理的傾向としての「自己否定性」(ここから他人に対する否定性も生じると考えている)や「内向性」を、暴力性や権力性から分離して考えるべきではないかと書いた。つまり、現存の社会システムに対する抵抗としての「自己否定性」や「内向性」ということである。
これは妥当な提案だと思われるが、再考せねばならないのは、ぼくが用いている「暴力性」という語の中身である。ぼくは、若い人たちの「自己否定性」や「内向性」にはポジティブな要素があるのではないかと考えたわけだが、それは、そうした心理や傾向が、「周囲の社会」が有している暴力性から発しながらも、最終的にはそれに対する「抵抗」たりうる、という意味においてである。ここでは、「暴力性」という語そのものは、社会システム全体が有する権力装置の暴力性に通じるものとして、一義的に理解されているといえよう(また、「権力性」という言葉も、国家的な権力とどこかでつながるものとしてだけ理解されている)。

では、暴力性(あるいは権力性)を、国家や支配的な社会システムから切り離してとらえることは可能だろうか。もしそれが可能だとすると、「抵抗」する若者たちがときに見せる自他に対する暴力的な衝動とか、自分の身体に対する破壊的な行動についても、たんに社会システムが有する暴力性の影響というだけではない、別の解釈が成り立つ可能性が出てくる。
暴力に関するこのような考察の例としてすぐに思い浮かぶのは、ベンヤミンの『暴力批判論』における「神話的な暴力」と「神的な暴力」という考えであろう。また、おそらくこれを引き継ぐものとして、ドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』で提示した、「国家装置」の外部としての「戦争機械」という特異な概念を想起することができる*1

『暴力批判論』を読み直してみよう

まず、ベンヤミンの暴力論について。
以下、岩波文庫版、『暴力批判論 他十篇』*2から要約して感想を書きます。

法と不可分なものとしての暴力

ベンヤミンは、国家権力はなぜ法の名のもとに個人から「暴力を用いる権利」を奪うのかという問いからはじめ、国家によるストライキ権の承認、「根源的・原型的な暴力」としての戦争暴力と「法の措定」、兵役義務、死刑制度などへのすぐれて状況的な考察を通して、「法措定的暴力」と「法維持的暴力」という二種類の「手段としての暴力」の区別を明るみに出す。
「法措定的暴力」とは、その行使によって「法」の形成が必然的・不可避的にもたらされるような暴力のことであり、「法維持的暴力」とはそのようにして形成された法体系を維持するために、法秩序の強制という形で行使される暴力のことである。具体的にいえば、前者は占領軍による新たな「法律」や「民主的制度」の設定という今イラクで起きているような現実*3、後者は警察力の強化や死刑制度の存続という日本社会の現実を思い浮かべてみれば、分かりやすいだろう*4
ここで、上記の区別の対象が、国家による暴力だけに限定されないのは、ベンヤミンが「法を措定する性格」を、個人のそれを含むあらゆる暴力に付随するものと捉えているからだ(これは大事なポイントだ)。
だからこそ、国家は自己以外による暴力の行使を恐れ、これを押さえ込もうとするのである(「暴力を用いる権利」の剥奪)。

もうひとつ大事なことは、ベンヤミンが占領や独裁あるいは「戦時体制」「警察国家」といった特殊な状況だけでなく、民主主義的・市民的国家に関しても同様に、その議会制民主主義を含む法的制度の根底に暴力の存在を見出していることだ。ベンヤミンの主張が、いわゆる平和主義や社民主義とは異なる過激さを持つのは、この点である*5

結局、法の存在は、その措定においても維持においても、暴力と不可分のものであることが明らかになるのである。

『つまり法的協定は、当事者たちによってどんなに平穏に結ばれようとも、けっきょくは暴力の可能性につながっている。』(p45)

『ある法的制度のなかに暴力が潜在していることの意識が失われれば、その制度はかえって没落してしまう。』(p46)

「神話的暴力」と「神的暴力」

さて、ここからがぼくにとってもっとも関心のあるところなのだが、ベンヤミンは「法的暴力」とは根本的に異なるような暴力の可能性を、認めていないのかといえば、そうではない。それについて、手段ではなく、目的にかかわるような暴力、とベンヤミンは言う。
彼がこれを引き出してくるのは、法の領域において暴力を考えることをやめ、その外側で暴力を思考することによってである。法の外側とは、ベンヤミンにとって「神」に関わる領域だ。こうして、「神話的暴力」という概念が登場する。

『ここで問われているような、媒介的ではない暴力の機能は、日常の生活経験からも知られる。人間についていえば、たとえば憤激は、予定された目的に手段としてかかわるのではない暴力の明白きわまる爆発に、かれをみちびく。この暴力は手段ではなくて、宣言である。しかもこの暴力の行なう宣言はまったく客観的なものであって、それを批判にさらすことも可能だ。この種の宣言のもっとも含蓄のあるものは、何よりも神話のなかに見られる。』(p55)

神話のなかの神々の気まぐれな怒りがもたらす暴力は、『ほんらい破壊的ではない』のだが、
その行使によって結果的に「境界設定」を行い、法を措定してしまう。つまり、権力として働いてしまうと、ベンヤミンは言う。

『直接的暴力の神話的宣言は、より純粋な領域をひらくどころか、もっとも深いところでは明らかにすべての法的暴力と同じものであり、法的暴力の持つ漠とした問題性を、その歴史的機能の疑う余地のない腐敗性として、明確にする。したがって、これを滅ぼすことが課題となる。』(p58)

ベンヤミンの暴力批判が、予想以上に繊細なものであることが分かるだろう。この神話的暴力を「滅ぼす」直接的暴力として提示されるのが、「神的暴力」なのである。

『神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。』(p59)

『神話的暴力はたんなる生命にたいする、暴力それ自体のための、血の匂いのする暴力であり、神的暴力はすべての生命に対する、生活者のための、純粋な暴力である。』(同上)

しかし、この「神的暴力」の概念は非常に分かりにくい。政治的な反権力闘争を肯定するための方便だと考えても*6、これはあまりに神秘主義的な概念なのだ。ベンヤミンは、ユダヤ神秘主義的な立場から、個体的・現実的な「たんなる生命」を、より上位の生命と区分して考えることにより、「神的暴力」の存在を正当化しようとするのである。

短いけど、結論です

ぼくはむしろ、神々のあの気まぐれな怒りによる暴力が、『ほんらい破壊的ではない』と言われていたことに興味がある。衝動的な暴力への欲求がはらんでいる生命の力を、それが現実にもたらす破壊や権力の確立とは切り離して、掬い取り、現実の社会のなかに構成的な要素として位置づける必要があるのではないか。
暴力が持つ潜在的な生命の力に対する抑圧と管理が、多くの人々を現実のなかでよりいっそう苦しめている。この悪しき力からの解放は、どうすれば可能だろうか。

この後、ドゥルーズ=ガタリの考えを検討するなかで、もう少しその辺を考えられたら、と思います。

*1:おそらく、暴力に関する実践的な思想の現代における系譜としては、この他に少なくとも、フランツ・ファノンの思想やガルトゥングの「構造的暴力」の概念などをあげなければならず、また特に現在の政治的・社会的な現実のなかでは向井孝の『暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か』に代表される、市民運動や社会運動においての「暴力」概念の再検討こそ、最も重要な思想的営為なのかもしれない。しかし、ぼくはそれらの思想を直接には知らないので、ここでは上記の二つの暴力論だけに言及する。

*2:

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

*3:イラクでの事態に触発されて、やはり米軍の占領下で構想されスタートした日本の戦後民主主義体制や平和憲法の再検討が議論されるなかで、ベンヤミンの分析がしばしば参照されたのは、主にこの文脈においてである

*4:ベンヤミンによれば、近代国家においてこの二種類の暴力の怪物的な結合を体現しているのは、「警察」の存在に他ならない

*5:この点に関しては、ベンヤミンは「非暴力性」と「議会主義」との和解は、原理上不可能であると考えている。ベンヤミンが「法」や「議会」の持つ暴力性に対置するのは、「嘘」(フィクション)や「詐欺」に対する寛容さを要件とするような「市民の合意の技術」である「話し合い」の非暴力性である。これは、非常にベンヤミンらしい面白い考えだと思うのだが、ここでは詳しく検討できない。またここで、ベンヤミンは法措定的ではないような、「政治そのものの純粋な手段」として、アナーキズムの「非暴力的」な闘争のあり方を、国家の論理の枠内にある「政治的ゼネスト」の暴力性に対置して、肯定しているが、これは戦後のヨーロッパの左翼系思想家たちに少なからぬ影響を与えたのではないだろうか。

*6:しかし、そう考えると、先にアナーキズム的な方法論を「非暴力的」だという理由で賞賛した意味がよく分からなくなる