『変成する思考』

変成する思考 グローバル・ファシズムに抗して (思考のフロンティア)

変成する思考 グローバル・ファシズムに抗して (思考のフロンティア)

市野川容孝、小森陽一守中高明、米谷匡史の四人による共同討議。
二部構成になっていて、「文化と翻訳」と題された前半では、現在の世界と日本における言語と文化の状況が討議される。「民主主義と暴力」と題された後半では、結局現在議会制民主主義が陥ってる困難な状況というものが、その「終焉」を意味しているのか、それとも乗り越えることが可能な困難と考えるべきなのかが、討議されているのだと思う。
前半の討議でも、いくつかの重要な事柄が提起されているが、ここでは後半の「民主主義と暴力」の部分だけを紹介する。

戦場化と言語

この討議のまえにおかれている、「法, 暴力, 民主主義」と題された小森の報告は、この本の白眉といえるものだと思うが、そこでは、第一次大戦後の世界を覆った「大衆扇動主義(ポピュリズム)」の言説構造が、五段階に分けて分析されている。
それは、国家の内と外に仮想敵を作り出すことによって、人びとを全体主義的な国家体制と戦争へとみちびき、やがては「社会全体が戦場化する」という事態へといたる、言論の過程を分析したものだが、非常に説得力のあるものだ。
なかでも重要だと思ったのは、次の指摘である。
現実の戦争の戦場とは、国家によって強いられた「殺すか殺されるか」を迫られる極限状況であるが、その状況のなかで生き残った者は、そこで死んでいった「戦友」に対して『根源的な負い目』、『申し訳なさ』をもたざるをえない。その感情を、そうした極限状況を強いた根本である国家や、戦争そのものに対する怒りや拒絶へと向けることなく、それが「敵兵」に対する憎悪、攻撃性へと転換された場合、

自らが生き延びるための殺人が正当化され、罪障感は連続的に封印されていく。この時点で, 言語によって構成されていたこれまでの超自我が意識下に抑圧され, 暴力の連鎖という形でエスが解放され, このあとは, いくらでも残虐になることができ, 自らの行為の内省は, この関係が再逆転しない限り発動することはない. そして言語による認識の事実と虚偽の境界が崩れていくことになる.(p65)


そして、9・11(ニューヨークの)以後の世界の状況というのは、マスメディアを使って、この五段階の操作が『一気にかつ連続的に』おこなわれている過程である、とされる。
70年代末のサッチャーイズム以後の先進各国におけるネオリベ的な政策の徹底は、日常生活を『戦場的状況』へと追い込んだ。

一瞬でも気を抜けば負け組(死者)に転落するという, 恐怖と不安が超自我としての言語システムを抑圧することで, 犯罪や詐欺行為が常態化していく. 言葉が持っていた暴力を抑制する機能が急速に抜きとられている.(p66)


「戦場化」が、人々のなかで言語の規範的な機能の失効を不可避的にもたらし、そのことがマーケット・リサーチャーや広告代理店的な言語の使用による大衆の操作をいっそう行いやすくさせる。
「快」をもたらすような言葉の言い換えによって、『嘘をついているとは断定できないが, 事実を隠蔽する言葉』がまかりとおり、権力と資本への人びとの支持が固定化されていく現在の言語状況を、小森は『限りない言語の口唇期への退行の組織化』と総括している。


この状況に対抗するすべはあるのか?
小森は、こう答えている。

まず重要なのは, ただちに対抗する側自身の言説において, 大衆扇動主義と同じ戦略や戦術をとることはなかったか, という徹底した批判的な点検を行うことだ. 実は多くの場合, きわめて似かよった言説の戦略や戦術がとられてきたのである. 脱却の道筋は明確だ. 大衆扇動主義の戦略と戦術の逆を実践すればいいのだ.(p67)


小森はこのように、合理的で分析的な言語による言説のたたかいを実践することこそが、現在の言語状況に抗う基本的な方策であるはずだ、とのべるのである。

神的暴力と気遣い

先にも書いたように、後半の中心的な論点は、議会制民主主義が現在露呈している危機が、その根本的な限界を示すものなのかどうか、つまりその「終焉」を宣告するべきなのかどうか、ということだが、こうした見方にはっきり反対を示すのが、市野川である。
ここで興味深いのは、ベンヤミンの『暴力批判論』が、この問題についての検討の材料になっていることだ。
市野川によれば、『暴力批判論』は、ワイマール共和国初の議会の開会直前であった1919年の蜂起のときに殺されたローザ・ルクセンブルクに対するベンヤミンの追悼文であり、あのなかで言われている「神的暴力」とは、ローザを殺した(その直後にワイマール議会を開いた)社民党政権側の暴力(これが、ベンヤミンのいう「神話的暴力」にあたるとされる)に対して、ローザの思想にはらまれていた、議会主義の未知の可能性を表現するものだったのではないか、というのである。


「神話的暴力」がワイマール共和国のはじめての議会の開催に先立って行使された政権側の暴力、つまりローザやカール・リープクネヒトの殺害を指しているのだというのは、説得力のある読みだ。「神話的暴力」とは、「法措定的暴力」だとベンヤミンは書いているからである。
一方、「神的暴力」を、議会開催に先立って行使されたもうひとつの暴力(具体的に分からないのだが、ローザたちの蜂起、ということか?)のことであるととらえ、その記憶を忘れないことこそ、議会主義の生命を保つ道であるということを、ベンヤミンは言おうとしたのだ、という市野川の読みは、たしかにスリリングだ。
これは、「神的暴力」についての解釈としては、ソレルのサンディカリズム(つまり、議会主義の否定)がその具現であるとベンヤミンは言っているのだという、通常の読みを否定するものだ。
市野川が説明しているローザの思想にこめられた議会主義の未知の可能性にふれる部分というのは、ぼくは彼女の思想をよく知らないのでなんともいえないが、ここで市野川が言っていることを逆に言うと、議会主義の本来の可能性とある種の暴力(神的暴力)とは、むしろ不可分であるのだ、ということになるだろう。
だからこれは、ある種の暴力を肯定する思想のうえに、議会主義の新たでより広範な展望を開こうとする立場だといえるのではないか、と思った。


そこで、「神的暴力」とは、どんなものか、という話になる。
それについて、とくに市野川と小森の対話をとおして示されるのは、それが、他者に対する本当の「気遣い(クーラ)」が生じたときになされる、自分自身の生命に対するある「断念」のことを指しているのではないか、という見方である。
他者の命を本当に気遣うときに、自分自身の生命に対してなされてしまう「乗り越え」、それは見ようによっては、自己の限定的な意味での生命を壊してしまう暴力の外見さえ呈するだろう。
小森があげているひとつの具体例は、イラク人質事件で高遠菜穂子さんが、こうした人質をとるような行動はかえってイラク人の抵抗に対する国際社会の支持と信頼を失うことになると思って怒り心頭に達し、自分を取り囲んだムジャヒディンたちを、自分の命をかえりみず叱り飛ばした、という話だ。
それは、『相手に対する思いだけに基づく行動』であったと、小森は述べる。
この行動、この怒りを、小森は人がそれによってはじめて「親になる」ことが可能な、他者の命への責任を担ったときに生じる自己の生命への、ある断念に結びつけるのである。


ぼくの言葉でいうと、こうした『相手に対する思いだけに基づく行動』において、人は自分という狭い枠を乗り越えてしまい(つまり限定的な自己の生命への配慮を忘れ、捨ててしまい)、相手に自分の自己性をいわば譲り渡してしまう、といえるのではないか。
『 I am you』とでもあらわすしかない場所に立つのではないか、と思う。


ベンヤミンは、「神的暴力」について、それは「人間のたんなる生命」を越えた価値に関係する、というふうに言っていた。
デリダが批判しているように、これは非常に危険な思想でもあると思う。「血の匂いのしない暴力」とは、「より高い価値」の名のもとに、血の匂いさえ残さない、絶滅の暴力という意味を持ちうるからだ。
だから、ベンヤミンのあのテクストの解釈として、ここで示されているような読みが適切かどうかは、ぼくには分からない。


だが、小森たちが言っている、他者の命を気遣い、それに責任を担おうとしたときに生じる、自己の生命への断念、あるいは限定的な自己の生に対する乗り越えということは、やはり「神的暴力」という言葉がもつ意味のひろがりの、一端にふれていると思う。
他者の命に対するほんものの「気遣い」は、たしかに自己の「たんなる生命」への関心や執着を破壊する要素がある。
それを「暴力」と呼ぶなら、この暴力を否定する根拠を、ぼくはぼく自身のなかに見出しがたい。
少なくとも、他者への「気遣い」がもたらすこの「激しさ」、「怒り」は、自己に先立つ、始源的なものだ。
ベンヤミンが「神的暴力」という言葉で描こうとしたイメージから、あの濃厚なユダヤ神秘主義的な要素をとりされば、この「激しさ」、「純粋な怒り」があらわれるのかもしれない。


本書では、こうした他者への気遣いが、「安全性」(まさに、自己の「たんなる生命」を絶対視するイデオロギーともいえるだろう)の名のもとに封じ込められる社会として、現在の社会をとらえ、その乗り越えの必要性が説かれている。

市野川  そうだと思います. 私は小森さんがふれられた高遠さんの話は, 圧倒的なクーラだと思いました. つまり, クーラを無化する安全性の論理を越境して, イラクへ行ったけれども, 彼女が拘束されたときに, 日本のわれわれはそのクーラを再び「自己責任」というかたちで封じ込めてしまった. (p111)


ベンヤミンが「たんなる生命」と呼んで相対化しようとしたものを、「安全性」の論理によって制度的に遂行される「気遣いの封じ込め」と重ねて解釈しようとするこの議論は、重く切実な問いかけを、ぼくの心に投げかける。