この道しかない

風知草:要するに、人を見る目=山田孝男
http://mainichi.jp/shimen/news/20141208ddm002070118000c.html


上は、毎日新聞山田孝男氏の記事。
概要は、自民党300議席越えという各社の衆院選情勢調査の結果に触れ、現在はかつてと違って、政治家のイメージなどテレビやネットにおける宣伝戦略が物を言う時代になっているということを、イタリアの政治学者の新著を紹介して論じている。例にあげられているのは、かの地のベルルスコーニ政権の与党だ。
だから、そうしたイメージにまどわされないで、有権者はしっかりした目を養わなければいけないし、政党の側(特に「健全な野党」たるものは、ということだろう)も、現実的な「別の道」を提示すべしというのが、山田氏の言いたいことだろう。
まさに教科書通りのリベラル市民社会論だ。
このような傾向、つまり旧来型の政党政治からメディア政治への変容は、一般論としては、たしかに世界共通に言えることであろう。日本でも、ポピュリズムと呼ばれた小泉郵政解散の時なら、かなり妥当していたと思われる。
だが、今回の安倍政権が強行した選挙に関しては、この「イメージ」や「宣伝」の巧拙のみによって、情勢調査に示された世論の傾向を説明するには無理がある。


もちろん、こうした調査そのものが、安倍政権におもねるマスコミの情報操作の一種であるという説は、たしかに当っているかもしれない。だが、私自身の実感から言っても、安倍政権を大半の国民が支持しているのは間違いないと思える。だからきっと、選挙の結果も、この情勢調査の数字と大きく違わないものになるだろうと、私は思う。


たしかに、今の日本でも、イメージや宣伝が人々の政治的意見を動かしていないとはいえない。
だが、この国の場合、宣伝によって動かされる国民たちの心は、元々国家から分離された中立的なものではなく、むしろ国家の側からのメッセージによって自分たちの秘めた欲望を正当化してもらえることを待ち望んでいるのだ。
イタリアの文脈において前提されているのは、前近代的な秩序や、ファシズムを醸成するような社会の体質といったものから、一度は脱却した市民たちによって構成された政治社会だ。イタリアとドイツは、共にファシズム体制を経験したが、前者は大戦末期に大衆自身がムッソリーニ体制にけりをつけ、後者は戦後に長い時間をかけて、そこからの脱却を果たしてきたのだ。このような国の場合には、宣伝がその対象にするのは、ニュートラルな有権者たちの心理であり、その宣伝戦に勝利した方が、政治的勝者になるだろう。
だが日本の場合には、人々の心情はいまなお、前近代的権威主義的な価値観の中にどっぷり浸かっている。はっきり言えば、大衆(有権者)の多くが、内心では、自ら近代的諸権利を放棄して、よき臣民になりたいと欲しているような社会なのだ。
こうした国において宣伝効果をもつのは、その人々の前近代的価値観に沿った内容のメッセージ、例えば「お上に逆らっても無駄だから、政治には関心をもたず、投票日は家でごろ寝してろ」とか、「逆らう奴、非国民どもは血祭りにあげられることになるぞ」とか、「役に立たない人間は切り捨てられるのが当然だ」とか「全てをお上のために捧げよう」といった種類のものだけだ。
与党側は、巨額の費用を投じて、そうした種類の(露悪的とも呼ばれるような)メッセージを社会に流し続けることによって、自分たちの地場をより強固なものにしているのである。
つまり、強者への隷属の原理、それが社会全体を覆っていて、人々はそれを内面化し、自分自身の欲望としてさえいる。人々の多くは、強者に同一化したいという、自分たちのこの欲望を肯定し正当化してくれるようなメッセージにしか、そもそも耳を貸すつもりがないのだ。
自分の聞きたい言葉だけを聞く。これが、日本のような社会における「宣伝」の実態である。


山田氏の議論は、こうした現実を覆い隠し、日本社会を、自立的な市民社会のように描いている。
そして、あたかもすでに民主化・近代化がなしとげられているかのような、この虚構の構図の上に、自民党政権が自称する「これしかない」という道と、「別の道」との選択肢があるかのように語られている。
その論によって封じられているのは、この封建的な権力関係と思考から、われわれが脱し、真に国家に対して独立的な社会を形成していくための「困難な道」の展望である。
どれほど困難であっても、この道を経ることなしに、私たちがファシズムから自己自身を解放し、他者との共生や連帯を実現することは出来ない、もちろん、私たち自身の社会の再生も。
まさに、「この道しかない」のである。

イスラエル・パレスチナ問題について

ガザの問題を含む、イスラエルパレスチナ問題が解決しない理由として、(イスラエルを批判する人の中でも)ユダヤ人の経験や位置に重点を置いて語る人が多いように思う。この問題の発端、そして重要な側面は、そこに住んでいたパレスチナ人たちが不当に剥奪され追放されたという出来事だと思うのだが、その面は、今ではあまり脚光を浴びない。
なぜ脚光を浴びないのかというと、そこに光が当たると都合の悪い人たちが多いからである。早い話、植民による先住者の権利の剥奪や虐殺が問題になってくると、イスラエルだけでなく、アメリカ合衆国も、国家の正当性が問われることになるであろう。そして、かつてこの地を支配してこの問題の元凶を作った英仏をはじめ、帝国主義植民地主義や、さらには資本主義の構造全体を問うことにもなってくる(オスマン帝国が支配した時代には、民族や宗教を超えた共生が、この地域で実現していたことは、サイードやイラン・パぺも書いている)。
だから、そうした大きな力を持つ国々や人々は、なるべくこの問題を、ユダヤ人とアラブ人という少数者同士の、特殊な争いということにしておきたいのだと思う。


ホロコーストを持ち出して、「ヨーロッパ諸国は、それに対する罪の意識があるから、イスラエルが何をしても批判できないのだ」という意見を聞くが、それは綺麗事で、実際は、自分たち欧米の人間が、(ホロコーストのみならず)パレスチナ問題という新たな残虐の(黙認者どころか)積極的加担者でもあるという事実を否認したいということなのではないか?
また、「ホロコーストを体験したユダヤ人には、パレスチナ人との共生をどんなに説得しても、それが悲劇の再現を意味するようにしか感じられないから、受け入れられないのだ」というような、もっともらしい言い分もあるが、これにも、そういうユダヤ人の心理状況に対する欧米の側の責任を認めたくないという欲望が透けて見える気がするのである。
いったい、ユダヤ人(その中の一部であろうが)や、イスラエルユダヤ系国民を、そうした切迫感へと追いやっているものは、本当に、ユダヤ人自身の頑迷さなり、ハマスの強硬姿勢といったものだけなのか?そのユダヤ側の頑迷さ(狂気の域に近づいていると思うが)というものも、その真の原因は、自らの加害性を否認したい、(日本を含めた)「国際社会」の側にこそあるのではないか。


もちろん、パレスチナ問題には、イスラエルという国が、シオニズムという思想と、国の成り立ちの根幹のところで結びついてしまっているという、極めて特殊な要素がある。
つまり、「ユダヤ人の為の国家」を、パレスチナ人たちの住んでいる土地に作るということを、国家の根本理念のようにしてしまっているため、「剥奪された先住者」としてのパレスチナ人と真に共生する社会というものが、そのままでは作れないような形になってしまっている。
だから、この問題の解決のためには、イスラエル自身が、国家の根本理念において、シオニズム的な思想と決別し、真に共生的な国へと生まれ変わる大手術を行う以外にないはずである。
それは当然ながら、イスラエルという国の存在を否定することでもなければ、シオニズムという思想をこの世から消し去ろうということでもない。ただ、両者を切り離すことによって、
イスラエルという国の性格を、真に安全で平和的なものへと変えようということである。
上に書いたように、多くのユダヤ人やイスラエル国民は、それを、自分たちの存在を否定するものとし考えて、受け入れないかもしれない。そのことがパレスチナ問題が解決しない主要な理由だと思っている人が、イスラエルを批判する人の中にも多いように思うが、彼らをしてそのように考えさせているものは、実はアラブやイスラムユダヤ人との双方を差別し排撃してきた、植民地主義や資本主義などの世界秩序の側ではないのかというのが、僕の言いたいことなのである。
イスラエルを説得する」というのは、イスラエルへのあらゆる圧力は当然だが、最終的には、こういう世界秩序自身の問題性にメスを入れるということ以外では、ありえないと思う。


イスラエル自身によるシオニズムとの決別(僕は解放と呼びたいが)は、あまりに現実性がないと言われる。それを言うために、過去にユダヤ人がどんな体験をしてきたかということや、現状でどれほど強行で偏った世論になってるかといったことが、しきりに言われる。
そういう体験を経て、思想が固まってしまった人から見れば、こうした「共生」への主張は、反イスラエル、甚だしくは反ユダヤ主義のようにしか思えないのだ、というわけである(イスラエルという国のあり方を変更不可能なものだと決めつけるのなら、確かに反イスラエルではあろう)。
だから、目の前の問題、つまり(67年以後の)占領地をめぐる「紛争」のような問題だが、それを解決するには、そんな非現実的な主張は取り下げて、イスラエルの現状の国家のあり方をそのままで認めた上で、「二国間解決」なりなんなりをやる以外仕方がないではないか、というのが、ここ何十年かの「交渉」の流れだったのではないかと思う。
だが今示されているのは、そういう根本に触れない解決への試みというものが、結局はイスラエルの政策と世論の極右化を招いた、という事態ではないかと思える。
どれほど非現実的だと思えても、やはりこの根本的な部分(イスラエルの国家のあり方の改変というテーマ)から、目を閉ざすことは許されないと思う。それを問うことが、ユダヤ人やイスラエルの存在を否定するものであるという、まったく転倒した物の考え方からの脱却を、ユダヤ人という特殊は体験と条件を有する人たちだけの課題とする(それ自体、一つの差別だと思う)のではなく、植民地主義や資本主義にどっぷりと浸かったわれわれ自身が、目指さなくてはならないのではないか。
世界全体が歪んだままで、どうしてイスラエルだけが、よく歪みから抜け出せるだろうか。


そして、イスラエルの世論を変えることが無理だから、国のあり方を真に共生的なものへと変えていくように働きかけることが非現実的だというのなら、そうした「無理」を、ひたすら強いられ続け、今も虐殺され続けているパレスチナ人たちのことは、いったいどうなるのか。
僕には、それが「無理」だからという理屈は、結局は、自分たち自身の生活を変えていく困難を引き受けたくないために、より弱い立場の人々(パレスチナ人でなければユダヤ人)を犠牲にして口を拭っていたいという、「富める」「持てる」社会の者たちの方便に思えるのだ。