高倉健と日本の70年代

前回の続きです。


いつも、ブログに記事をアップした後になって、何が大事なことだったかに気がつくのだが、昨日の高倉健の話で、私が言いたかったのは、暴力そのものの単純な否定ではなく(最終的には、そこに行きつくとは思うのだが)、「封建的価値観に基づく自己抑制―短絡的な暴発―公権力への帰順」という回路(暴力の物語)によって、暴力の根源にある人間の(他者と共に)生きる力のようなものが個人から奪い取られ、国家や大きな権力にとって都合のいい形に変えられてしまう仕組みについてだった。
高倉健」という国民的な物語は、その仕組みを象徴するようなところがあった。あのインタビューを通して、私は高倉自身が、その仕組みの欺瞞性を無意識に解体し、卑小だが生身の存在である自分自身というものを回復しようとしているように感じたのである。
それは、死を3年後に控えた一人の老齢の日本人男性の、遺言のようなものだったのではないか。
国家的な暴力の物語に回収されることなく、他者との関係を作り上げていくものとしての生の力を取り戻すこと。その営みは、自分自身に埋め込まれた、暴力の制度的な性格を見詰め、克服していくことによらなければ、可能にならないはずだ。
私は、高倉のあの述懐に触れて、これまでの私自身の鬱屈した怒りの暴発が、上記のような回路の中に完全に閉じ込められていて、それ故に女性や動物や子どもなど攻撃しやすい対象(社会的に攻撃性の発露にすることが是認されている対象でもある)に向けられるばかりで、立ち向かうべき大きな力に向うことがほとんど無かったという事実を、あらためて自覚しないではいられなかった。
それは、私の生きる力が、他人との関係を作り上げていくことには向けられず、大きな力の命じるままに自他の生を否定したり支配することに利用されるだけであることを意味するだろう。
高倉健は、あの述懐によって、そういう閉塞的な仕組みのなかで生き続けることからの解放を図ろうとしたのだと、私には思われた。


さて、一応ちゃんとした話はここまでにして、以下では高倉健の訃報に触れて、感じたことや思い出したことを、とりとめなく書き留めておきたい。
訃報を聞いて、なぜか私の頭をよぎったのは、70年代に高倉が主演した映画、『君よ憤怒の河を渉れ』のことだった。といっても、実は私はこの映画を見たことは無く、内容もよく知らなかった。ただ、この映画が、日本国内でよりも中国で人気を集めているという報道が、当時新聞紙上を賑わしていた記憶が、まず浮かんできたのである。
映画の内容は、ウィキペディアによれば、こういうものらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%82%88%E6%86%A4%E6%80%92%E3%81%AE%E6%B2%B3%E3%82%92%E6%B8%89%E3%82%8C


日中国交回復後の中国で、特にこの映画が支持された理由は、いろいろと考えられるであろうが、とにかく私の中では、高倉健といえば、まずこの映画をめぐる報道のことが思い出されるのだ。
それは、東映を離れてフリーとなり、乾坤一擲という感じで主演したこの映画が国内ではヒットせず、窮地に陥っていたこの国民的大スターが、中国の映画ファンの支持によって復活したという、私の印象である。
ところが、この映画について触れた追悼記事や番組を、私はほとんど見なかった。唯一、訃報が報じられた日の、毎日新聞の夕刊一面のトップを占めた回顧記事が、この作品が俳優高倉健のキャリアにおいていかに大きな転機となったかを書いていたのだが、それは例外だったと思う。
同じ毎日でも、「中国でも、いまだに尊敬されている」という趣旨の記事はあったが(それでも良い方だと思うが)、この日本の国民的スターが(ということは、われわれ日本の映画ファンが、ということでもあるはずだが)、中国の映画ファンから受けた大きな恩義について論じられている文章や発言に、まだ触れることが出来ないのは、とても残念だ。
私はそこに、日中国交正常化がなされ、国内では高度経済成長の失速のなかで、戦後の日本が唯一アジアに向って、自分を開いて行く可能性があった、この70年代という時代の出来事が、今日の日本社会の「物語」の中では、思い出されることのはばかられる「記憶の穴」のようなものになりかかっているという現実を、垣間見る思いがした。
そもそも、今の日本映画では、無実の罪を着せられて巨大な権力の手先に追われる検事が主人公という、設定自体が、娯楽作品として成立しにくくなっているかもしれない。
この作品と同じく、日本国内ではヒットせず、海外(フランスなど)で高い評価を得た高倉の主演作品に、同じ佐藤純彌監督の『新幹線大爆破』があるが、珍しく社会派的な色合いの「犯人」役を高倉が演じたという(私は、この映画も見てないのだが)この作品も、ほとんど回顧記事の中に出てこなかったような気がする。まあ、反権力の検事でもNGなら、同情的に描かれる爆破脅迫犯では、なおさら駄目であろう。
日本国内でよりも海外でヒットするような作品には、極めて冷たいというのは、昔からの日本映画界の伝統のようなものかもしれないが、70年代的な映画の作られ方の根底にあるものが、今の日本社会ではタブーのようになりつつあるのではないかという気がするのだ。
その「根底にあるもの」とは、支配的な政治権力に対する反抗や、その支配を逃れ、あるいは裏をかいたりして生き延びようとする精神といったものであり、それは恐らく映画の作られ方や売られ方を深いところで支えており、そういうものこそが、言葉も文脈も知らない外国の人たちの心を打ったのではないだろうか。
この時代以後、高倉の主演作は、再び内向きの国民的物語のなかに、しかも、それまでとはやや違う大国主義的・復古的な傾向をもった物語のなかに閉ざされていったという印象がある。高倉健は、もはや権力に抵抗したり、その圧迫を逃れて生き延びようとする男ではなく、かといって、かつてのように、粗暴な反抗を通して国民国家とある種の共犯関係を維持しているアウトローのイメージでもなく、より強固で洗練された仮面をかぶることを通して、国家の力と権威の復権を隠蔽しつつ正当化するような、新たな国民的イメージの担い手となったのだ。


また話が堅くなってしまったことは、不器用なので勘弁してもらいたいが、ところで上記の『新幹線大爆破』だが、この映画の基本的な設定は、1960年代に製作されて、後に日本でも放映されたテレビドラマ、『夜空の大空港』をヒントにしているようである。
つまり、前者では新幹線が一定の速度まで減速すると爆弾が爆発する仕掛けになっているのだが、後者では、飛行機が一定の高度まで下降すると爆発する「セルロイド爆弾」なるものが登場していたのだ。
私は最近、子どもの頃(つまり、70年代だと思うが)にテレビで見て、今でもよく覚えているこの『夜空の大空港』と、やはり同じ頃にテレビで見た、軍部による合衆国クーデター計画を描いた政治サスペンス映画の傑作『五月の七日間』とが、同じ脚本家の手になるものだということを偶然知って、少なからず驚いた。
それは、テレビシリーズ『トワイライト・ゾーン』でも有名で、今でもアメリカではカルト的な人気を誇っているという、ロッド・サーリングという人である。
(参考記事。http://maribupublishing.blog76.fc2.com/blog-entry-102.html
ちなみに、『夜空の大空港』に主演したエドモンド・オブライエンが、『五月の七日間』にも出演しているということも、調べていて初めて気がついた。
そして、どちらもいまだに記憶に残っているこの二つの作品を、多分10代だった70年代の私が見ることが出来たのは、当時淀川長治が解説をしていた、現テレビ朝日系の「日曜洋画劇場」のおかげだった。
この番組では、放映作品の選定に淀川の意志がどのぐらい入っていたのか分からないが、例えばルイス・マイルストン監督の戦前(1930年)の傑作『西部戦線異状なし』とか、戦後フランスの反戦映画の異色の傑作と言われる『幻の市街戦』などが放映されたことは、よく覚えている。
こうした作品が、週末のゴールデンタイムに全国ネットで放映されるということも(当時、地方に住んでいた私は、翌週の日曜の午後にそれを見ていたのだと思うが)、70年代らしいというか、今ではとても考えられないことだろう。
そうした記憶も、私には人生の財産になっていると、時々思う。