『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』

 

宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか

宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか

 

 

 

この本は、専門的な内容はまったく理解できなかったが、非常に面白く読んだ。

あまりにも面白いので、読み終わるのが惜しく、途中までは読むつもりがなかった巻末の「補遺」、専門的な数式を展開しているところまで、皿に残ったスープを舐めるみたいに(でも、もちろん数式は全部飛ばして)読んでしまったほどだ。

数学や自然科学がまったく分からない僕が読んでもこれだけ面白いのだから、いくらかでも素養のある人が読めば、それ以上に面白いだろうと思う。

これはもちろん、著者だけでなく編集の力が大きいのだろうが、数式などの学問的な内容が分からなくても、丁寧に書かれてあることを追っていけば、かならず何か発見があると実感させる著述の進め方には、じつに感心させられる。

ちょっと、吉川幸次郎漢詩や戯曲の注解を読んでいる時の感じとも似ている。

この本のテーマであるペンローズの学説、「共形サイクリック宇宙論」については、以前、『知の果てへの旅』(マーカス・デュ・ソートイ著)という、これも大変面白い本を読んだときに初めて知ったのだが、その時は、なんという奇想天外な説だろうと思ったものだ。

ところが、本書でペンローズは、自分のこの説は、たいへん保守的なものであるということを言っている。その意味は、熱力学第二法則アインシュタイン一般相対性理論といった、古典的な物理学の法則・考え方と整合するものであるから、ということらしい。

他の説、たとえば、ビッグバンの直後に爆発的な宇宙の膨張が起きたという「インフレーション説」とか、多元宇宙論のようなもの、あるいは、ひも理論といった、広く関心を集めている新しい学説の多くは、こうした古典的な考え方と整合していない、のみならず、そもそも考慮していないように見える、ということらしい。

自分の考え方は、(一見奇矯に見えても)そういうものとは違うのだ、というわけである。

さらに、ペンローズは、量子力学自体についても、将来大きく修正される可能性があると考えているようだ。これも、物理学の古典的な考え方を重視する、「保守的」な態度の一つのあらわれではないかと思う。

あと、印象的だったのは、いわゆる宇宙論という学問は、1960年代になって「宇宙マイクロ波背景放射」というものの観測が契機になって、膨大な量のデータによって推論を検証・修正していく「精密科学」に変貌した、と書かれていること。それ以前の宇宙論は、ほとんど推論によって成り立っていたのだそうだ。

もちろん、ペンローズの説も、こういう精密な検証を経ながら展開されているのだが、ここにも技術の発展が、人間の思想の根本的な部分に劇的な影響を与えるということの、一例が見られるのではないかと思った。

『猿と女とサイボーグ』・その2

 

猿と女とサイボーグ ―自然の再発明―新装版
 

 

 

『猿と女とサイボーグ』について、前回の記事では、所収の文章の中で最も有名な「サイボーグ宣言」について、少しだけ書いたのだが、あらためて全編を簡単に紹介しておこう。

まず、前半の幾つかの章では、ハラウェイの専門的な研究分野の一つである、霊長類学研究(特に米国の)の歴史が概観され、検討されている。

「猿」の研究は、人間の研究にとって不可欠である、みたいなことを言ったのは、エンゲルスだったかカフカだったか。ともかく、ハラウェイは、霊長類の研究が、生物・動物の中でも、人間社会の管理や支配のための材料としての性格を特に強く持つものである点(したがって、動物自身はどこか置き去りにされている)を強調する。たとえば、戦前の霊長類研究の権威とされた学者は、工場のテイラー・システム導入や徴兵の為の知能検査についても指導的な役割を果たしていたらしいのだが、それはある時代に限ったことではなく、ずっと続いているものなのだ、というのが大事なところである(霊長類研究者が組織のボスになった場合は、特に注意した方がいいかも知れないね)。

霊長類研究の歴史に関しては、「男性=狩猟者の娘たち」と題された章が、特に印象深く、ハラウェイのフェミニストとしての視点も、明確に示されているものだと思う。そこでは、第二次大戦後に次第に増えてきた有力な女性研究者たちが、霊長類の観察や、そこから推論される人間への進化の過程の理論に関して、世代を追って徐々に自由で独自な思考と言説を展開するようになった歴史が語られるのだが、ハラウェイは、そうした学問上の変化は、社会全体のフェミニズム運動の展開と不可分であり、また強い相互性を有していることを強調する。

こうした「政治」と「科学」とのせめぎ合い、つながりは、決して欠かすことはできない。なぜなら、科学、なかでもとりわけ生物学は、政治から独立して存在したり発展したことなど、そもそも一度もないものだからである。

 

 

『我々が、以下で概観しておこうとしている、社会生物学の立場にたったフェミニズムの論理は、西欧の政治民主主義という尽きせぬ理論の泉に端を発するものである。(中略)繁殖をめぐる競争という生物学の論理は、我々が継承している資本主義の政治経済や政治理論での、ごくありふれた初期的形態の議論の一つにすぎない。生物学は、本質的に、政治言説の支流でありつづけてきたのであり、客観的真理の概説ではなかった。(p189)』

 

 

科学や科学者に限らず、政治とは無縁に生きている人間など、この世に存在するだろうか?

それはともかく、同時に(逆に)、政治や政治運動には、科学との強い関係性もまた不可欠であると考えるところに、ハラウェイの特異さがあるとも言えよう。

だが、その「科学主義」は、あくまで、科学が常に「政治」(支配の意志)を帯びていることへの批判をはらんだものなのである。

上の引用文中に「社会生物学」(ドーキンスなど)という語が出てくるが、これもまた、科学(生物学)が示す政治への従属の形態の一つと考えることができる。

ハラウェイがこれらの論文で言っていることを概括すると、時代を追って、a「優生学、優位性」、b「人間工学、リベラルイデオロギー」、c「社会生物学、市場の論理」といったセットで生物学の言説が進んできたことが分かるのだが、これらはいずれも資本主義と政治支配のツールであったことが、本書では詳しく述べられているとはいえ、なかでも、これらの文章が書かれた当時の時代状況(もちろん新自由主義の台頭期でもある)を反映して、社会生物学に対するハラウェイの批判は辛辣である。下の文章では、aとの比較を含めて次のように述べられている。

 

 

社会生物学におけるエンジニアリングによる再設計の限界は、価値の私的領有や、それに必然的に付随する、まさに目的論としての支配の必要性といった資本主義の原動力によって設定される。性役割を遺伝的素因によって合理化する方が、「人間」が「自然」を支配するという社会生物学に基本的なエンジニアリングの論理に比べれば、根源的性差別主義の度合いはまだしも低い。(p130)』

 

 

さて、本書の中頃には、フェミニズムの歴史と論争に関する文章が収められているが、そこで目を引くのは、米国の白人中産階級出身、そして高学歴の女性研究者としてのハラウェイの、「他者」である女性たちの眼差しと言葉に対する感受性だ。

 

 

『その一方で、具体的には、黒人女性―そして一般的には、新世界による征服に遭遇した女性たち―は、もっと広い社会領域を構成するような生殖上の自由なき状態(リプロダクティブ・アンフリーダム)と直面してきた。すなわち、有色の女性たちが直面してきたのは、米国社会の基礎をなすような覇権的言説の数々において、彼女たちの子どもたちが、人間という地位を継承することがない、という状態だったのである。(p278)』

 

 

『屹立する矛盾同士の緊張状態を保ったままアカウンタビリティを創出するというのが、帝国主義、人種主義、男性至上主義のホロコーストを横断する女性たちのあるべき団結についての私のイメージである。(p233)』

 

 

フェミニズムの歴史と、当時の論争の状況についての、ハラウェイの詳細で難解な分析と主張を、ここで要約・紹介することはとても出来ない。

ただ、前回の記事でも紹介した「サイボーグ宣言」は、レーガン政権下(80年代中頃)の政治・社会の状況への鋭いカウンターであると共に、こうした「他者」との連帯を模索する、ハラウェイのフェミニストとしての実践の一つの里程として捉えるべきものだと思う。

 

 

『サイボーグは、断固として、部分性、アイロニー、緊密さ、邪悪さに関与する。サイボーグは抵抗的で、ユートピア指向で、無垢さなどまったく持ちあわせていない。(p290)』

 

 

『サイボーグたるフェミニストたちは、「我々」が一体性に関してこれ以上自然な根拠など欲していないし、どの構築物も全体などではない点について論じてゆく必要がある。(p303)』

 

 

「自然」概念に対する批判というのは、本書を通底するハラウェイの重要なテーマであり、「サイボーグ」というイメージ・発想も、当然、その文脈で読まれるべきものではあるだろう。

だが、「サイボーグ宣言」をいま読んで、何より驚かされるのは、経済のグローバル化新自由主義の拡大、そしてIT技術の急速な発展とその軍事との結びつき(また、やがては生命科学との合流)という、当時の社会の状況に対する分析が、現在にもほぼ当てはまっているようにも思えることだ。

ここでは、レーガン政権下で急速に発展しつつあった政治(統治)の手法について、ハラウェイは、「支配の情報工学」という言葉を使っている。

 

 

『女性たちが直面している状況とは、私が支配の情報工学と称する生産/再生産とコミュニケーションの世界システムへの女性の統合/搾取である。家庭、仕事場、市場、公的舞台、身体自体といったものは、いずれも、ほぼ無限かつポリモルフなやり方で、分散させ、連動させることが可能であり、その結果、女性をはじめとするさまざまな人々に重大な帰結がもたらされる。しかし、もたらされた帰結の内容自体が、その結果の及ぶ人々によって甚だしく異なるため、国境を越えた強力な抵抗運動が不可欠であるのに、そうした運動を想像することさえ困難となってしまう。(p314)』

 

 

具体的な状況の分析を、引用が多くなるが、さらに引いておこう。

 

 

『労働は、それを行うのが男性であると女性であるとにかかわらず、文字どおり、女性的、あるいは女性化されたものとして再定義されつつある。女性化されることが意味するのは、極端に弱い立場に追いこまれ、予備労働力として分解・再組み立てされたり搾取されたりする対象となり、労働者としてよりは奉仕者であるとみなされるようになり、賃労働に時間契約で就いた結果、就労時間制限すら用をなさなくなり、猥褻かつ場違いで、セックスに還元可能な状態と常にスレスレの存在となることである。(p319)』

 

 

『こうした経済、技術の新たな編成は、福祉国家が崩壊し、その結果、女性に対して、自らのみならず、男性、子ども、老人の日常生活をも維持せよとの要求の強まったこととも関連している。貧困の女性化―福祉国家の解体によって、そして安定した職業そのものが例外と化したようなホームワーク経済によって生起し、子どもを養っていくという意味で、女性の賃金が男性の収入に匹敵するレベルに達することはないだろうという予測のもとに維持されているような動向―が、焦眉の課題となっている。(p320)』

 

 

『新技術から派生した世界規模の構造的失業状態についての見通しが、ホームワーク経済という情勢の一部をなしているのは、こうした文脈においてである。(p321)』

 

 

『新技術の社会関係に必然的に伴う今一つの側面は、労働力として科学やテクノロジーに携わる多くの人々にとって、期待、文化、労働、生殖/再生産が再編されることである。社会的、政治的に見た危険としては、極めて二重性の強い社会構造が形成されることが重要だろうし、その過程では、ホームワーク経済の恒常的な人員余剰状態から抜け出せず、いろいろな意味で無能力、無気力状態に追いこまれ、エンタテインメントから監視、痕跡抹消にいたるハイテク抑圧装置によって管理された女性や男性の大衆が生み出される。こうした大衆にはすべての民族(エスニック)グループが含まれるものの、中心をなすのは有色の人々である。(p324)』

 

 

『支配の情報工学は、不安がいちじるしく増幅され、文化が疲弊し、最も傷つきやすい者が生存するためのネットワークが常に欠落しているような状態としてしか描写のしようもない。(p329)』

 

 

「サイボーグ宣言」とは、こうした情勢認識をもとに、それを乗り越えるために提起された、連帯とサバイバルの処方なのだということは、何度でも強調されるべきだろう(その一端については、前回の記事を参照されたい。)。

 

 

『サイボーグのジェンダーは、グローバルに復讐するローカルな可能性である。人種、ジェンダー、資本は、さまざまな全体やさまざまな部分についてのサイボーグ理論を必要としている。サイボーグには、全体に関わる理論を作ろうという衝動はないものの、境界に関わる―境界を構築し、脱構築してきた―親密な経験がある。サイボーグには、いずれは政治の言葉となって、科学やテクノロジーを考え、支配の情報工学に挑戦して、強力な活動を行ううえでの一つの方策を基礎づけることになるであろう神話の体系が存在する。(p346)』

 

 

さて、本書の最後から二番目に収録された「状況に置かれた知」という文章は、かなり理論色の強いものだが、フェミニズムの立場から、科学的認識、のみならず「客観性」という言葉のあり方を定義し直そうという、非常にラディカルな内容のものだ。

フェミニズムの立場からというのは、つまり、超越的な視点や位置に立たず、自己にとって「対象」とされるような相手との相互性、いわば対等性を受け入れる、という意味だ。

ここも引用が続いてしまうのだが、ハラウェイの言葉を読んでいただこう。

 

 

フェミニズムの立場にたつ者は、超越性―誰かが何かについて責任を有さざるをえなくなったまさにその地点で、自らの媒介行為の轍を消してしまうような物語り―や、無限の機器的権力を約束するような客観性という教義を必要としてはいない。我々は、ことばと身体の双方が有機的共生の至福へと転落していくような世界を表象するための無垢なる力をめぐっての理論を欲しているわけでもない。我々は、大文字のグローバルシステムとしての世界を理論化したいわけではないし、ましてや、そうした世界で行動したいわけでもないものの、地球規模の連携のネットワーク(中略)は必要としている。(p358~359)』

 

 

『というわけで、さほど予想外というわけではないけれども、客観性とは、特定の具体的な具現化の過程に関わるものであって、決して、あらゆる限界や責任を超越することを約束するような偽りの視覚(ヴィジョン)に関わるものではないということになる。教訓は、単純であるが、以下の通りである―部分的な視角(パースペクティブ)のみが、客観的な見方(ヴィジョン)を保証する。客観的な見方とは、視覚(ヴィジョン)にかかわるあらゆる実践の生成能力に関わる責任という問題を隠蔽するのではなく、創出していくような見方である。(p363~364)』

 

 

アイデンティティにしても、自己アイデンティティにしても、科学を生成することはない―科学を生成するのは、ぎりぎりのところで位置を選びとる過程、すなわち客観性である。支配者としての各種の位置を占めている者たちのみが、自己同一的で刻印されておらず、具現化されておらず、媒介されておらず、超越的で、生まれかわる。残念ながら、被隷属の位置にある者が、そうした主体の位置を熱望したり、場合によってはそうした主体の位置にスクランブルをかけたりする―そして、その後、視界から消えてしまう―ことも可能である。

刻印されざる者の目の位置からみた知は、心底、幻想的で、歪んでいて、そしてなんとも不合理である。客観性を到底実践できず、客観性に栄誉を与えることもできない唯一の位置が、マスター、大文字の男性/人間、唯一無二の神という位置であり、彼らの「目」があらゆる差異を生成し、領有し、指令する。(p370~371)』

 

 

ここで、「刻印されざる者」という語に、代表例として、政権の指導者(辞めかけだが)のイメージを当てることは、あまりにも容易(超越的?)であるものの、そう間違ってもいまい。要は、男性主義的な世界観(像)ということである。

それに抗して、ハラウェイが主張するのは次のようなことである。

 

 

『状況に置かれた知においては、知の対象が、行為主体であり、なおかつ媒介行為主体として図像化されることが必要である。(中略)かくして、「リアルな」世界をめぐっての記述内容は、「発見」の持つ論理にではなく、「対話」の持つ、充電され、権力を帯びた社会関係に依拠していることとなる。(p381)』

 

 

『客観性とは、非-相互関与状態に関わるものではなく、世界という場―すなわち、「我々」が、恒久的に、死にゆくような存在でありつづけ、すなわち、「最終的」管理のもとに置かれた存在などではないような場―において、「我々」が、相互に、そして大抵は、相等しからざるかたちで、何を形づくっていくのか、そして、その過程でいかにリスクを負ってゆくのか、といったことがらに関わるものである。(p386)』

 

 

ところで、「訳者あとがき」によると、ハラウェイは、80年代後半からのエイズの流行のなかで、元夫であった人の同性愛のパートナーの男性と、元夫とを相次いで失っている(この二人は、ハラウェイとそのパートナーと共に、四人で共同生活をしていたとのこと)。

その深い喪失の痛みのさなかで書かれたのが、最後に収められた免疫学の言説の社会における役割についての分析、「ポスト近代の身体/生体のバイオポリティクス」である。

そのなかでハラウェイは言う。

 

 

『いったいいつになったら、自己が自己に飽きて、医学や戦争やビジネスにおける制度化された言説の全体にとって、自己の有する境界が最重要事項となるような状況をもてあますようになるのだろう。免疫と傷つきにくさというのは、互いに交錯する概念であり、こうしたことは、集団としての個や個人としての個についての手近なリベラルな言説が、死や有限性をめぐる体験を収容しえない核文化では、当然の帰結である。生き物は、傷つきやすさの窓のような存在である。その窓を閉ざしてしまうのは誤りではなかろうか。(p438)』

 

 

ハラウェイが批判しているのは、死や有限性という外部を認めない、不死(超越)のイデオロギーのようなものだろう。

だがそれは、資本主義の想念であると同時に、彼女が言うように「核文化」の本質でもある(これは、80年代の運動が切り拓いた重要な観点だと思う)。つまりそれは、実際には、生を否認する、死のイデオロギーなのだ。

この資本主義に覆われた社会においては、(自他の)死への希求は、われわれみんなの内部に深く埋め込まれていることを自覚するべきだろう。とりわけ、「心底、幻想的で、歪んでいて、そしてなんとも不合理」な内面に閉ざされた、われわれ男性の内部には。

『猿と女とサイボーグ』

 

 

猿と女とサイボーグ ―自然の再発明―新装版
 

 

この本は滅茶苦茶難しいんだけど、とても繊細で力強い。

とくに、レーガン政権下の1985年に書かれた「サイボーグ宣言」。

そのなかでハラウェイは、オードリー・ロードの提出した「シスター・アウトサイダー」という概念を自分なりに解釈して、次のように述べる。

 

『私の政治神話では、シスター・アウトサイダーとは、米国の女性労働者や女性化された労働者(注 ここでハラウェイが「女性化」というのは、情報産業化によって男性労働者の状況も不安定化したことを指している)から、彼らの連帯をはばみ、安全を脅かす敵としてみなされることになっているような米国国外の女性である。(p334)』

 

『性産業や電子部品の組み立てに雇用される若い韓国女性は、高校から採用され、その段階で、すでに集積回路向きの教育を受けている。(同上)』

 

共同体内的な「連帯」の可能性をはばむ「敵」としてみなされるような、サイボーグ(境界横断・侵犯)的な他者の存在のありよう(現実)にこそ、レーガン政権時代に顕在化した高度情報化社会(シリコンバレー)とグローバル支配体制に抵抗していく方途を見出すべきだということを、すでにハラウェイは見切っていたのだ。

当時、その「現実」は、米国や日本のグローバルハイテク企業によって搾取される、東南アジアや韓国の女性労働者に、もっともよく示されていた。

この「シスター・アウトサイダー」が体現する「サイボーグ」的な生存と闘争に関して、ハラウェイは、さらに次のようにも書く。

 

 

『一例を挙げるなら、新世界のメスティーソという「非嫡出」人種の母であり、ことばの達人であり、コルテスの情婦でもあった土着の女性マリンチェの物語りを語り直すことは、メキシコ系の女性たちがアイデンティティを構成していくうえで格別の意味を持つ。チェリー・モラガが『戦いの時代における愛すること』で探るのは、アイデンティティというテーマ―すなわち、起源の言語を有したことも、起源の物語りを語ったことも、文化の園の正統的へテロセクシュアリティという調和に身を置いたこともなく、したがって、アイデンティティの基礎を、神話や無垢からの堕落、そして母のものであれ父のものであれ自然な名前を有する権利に置くことができないような場合に、いったいいかなるアイデンティティを想定しうるのかというテーマ―である。(中略)モラガのことばは、「全体」ではなく、意識的に接合された、英語とスペイン語という征服者の言語のキメラである。しかし、有色の女性にとってエロティックで使い手のある有力なアイデンティティを紡ぎだすのは、違反以前の起源言語を主張することのない、こうしたキメラとしてたち現われる怪物(モンスター)である。シスター・アウトサイダーが喚起するのは、世界が生き延びてゆく可能性であり、こうした可能性があるのは、彼女が無垢だからではなく、彼女が境界上を生き抜く能力を持ち、起源の一体性という基底神話―無垢かつあまりに偉大な母、すなわち息子による今一つの搾取の螺旋から最後の最後になってようやく解放される母になるという、男性/人類が想像してきた死に至る一物性への最終回帰という黙示録がいやがうえにもつきまとうような神話―に依拠することなく書く能力を身につけているからである。(p336)』

 

 

ずいぶん色々なことが包含されている文章だと思うが、何らかの「起源」や「自然」という一体的なものに回収されることなく、あくまで「生き延びてゆく」ことというメッセージを、サイボーグという異種接合の生のイメージによって伝えようとしていることに、とくに心を打たれる。

また、僕は、このくだりを読んで、同時代に書かれたジャン・ジュネの『恋する虜』(86年)を思い出した。新自由主義レーガン政権の「スターウォーズ」構想とが世界を覆いつつあったこの時代に、母と息子の物語の呪縛からの、つまり、ハラウェイの言う「死に至る一物性への最終回帰」という仕組みからの離脱が、複数のテクストの上で試みられたことは偶然だろうか。

そういえば、ジュネとハラウェイは、どちらもアンジェラ・デイビスと強いつながりがある。

 

『橋川文三 柳田国男論集成』

 

柳田国男論集成

柳田国男論集成

  • 作者:橋川 文三
  • 発売日: 2002/09/01
  • メディア: ハードカバー
 

 

、全部読んだわけではないが、(図書館での)貸し出しの期限をだいぶ過ぎたので他の本と一緒に返却。

読み応えあった。

 

戦後の柳田ブームのきっかけになったと言われる「柳田国男 ―その人間と思想」(1964年)は、そう長い文章ではないが、さすがの内容である。柳田の文章も数多く引用されているが、特に1910年(明治43年)に出版された名高い講演録「時代ト農政」の最後のところの引用が印象深い。

 

「国民の二分の一プラス一人の説は即ち多数説でありますけれども、我々は他の二分の一マイナス一人の利益を顧みぬと云うわけには行かぬのみならず、仮に万人が万人ながら同一希望をもちましても、国家の生命は永遠でありますからは、予め未だ生まれて来ぬ数千億万人の利益をも考えねばなりませぬ。況んや我々は既に土に帰したる数千億万人の同胞を持って居りまして、其精霊も亦国運発展の事業の上に無限の利害の感を抱いているのであります。」

 

ここに開陳されているのは、帝国の官僚としての柳田の考え方だといえるが、それ以上に、保守主義柳田国男の考え方の核心部分であり、それは戦前・戦後を通じて柳田民俗学の根底を流れるものでもあっただろう。

それは国家観としては、国家有機体説に属するものである。

国家ということを外して、社会や共同体の倫理ということなら傾聴すべきものだと(とりあえずは)思うが、それが国家に関する思想となれば、橋川が(別の論考で)的確に指摘するように、そこには支配の装置としての、あるいは権力機構としての「国家」を見据える視点が、決定的に欠如することになる原因が存しているという他ない。

やはり橋川の言うように、それこそが柳田の学問の決定的な弱点だろう。

そしてもちろん、これは柳田一人の問題ではない。

同じ1964年に書かれた「魯迅柳田国男」という短いエッセイのなかで、橋川は、

 

『柳田があれほど深く広い歴史の智識をもちながら、ついに魯迅の沈痛、強烈な歴史観をもちえなかったことが、かえって私には謎である。柳田が浅いというふうに私はいいたくない。かえって柳田のその浅さの含む深い意味に謎を感ずるのである。そしてそれを日本の謎であるといってもよいと思う。』

 

と書いているが、その「謎」を解く鍵は、やはりここ、つまり国家(及び様々な国家に類似する共同体)と自己との撞着的な関係にあるのだろう。

 

 

ここからは、戯言。

この本を読む前、すが秀実・木藤亮太著『アナキスト民俗学』という本を読んだ。これもたいへん面白い本だったが、(同書のなかでも言及されている)橋川の論考を読むと、やはり橋川の鋭さが際立つのだった。

また本書に収められた、橋川の保守主義論を読んで、やはり先日読んだブルーノ・ラトゥール著『地球に降り立つ』という本を思い出し、ラトゥールの主張は、結局、保守主義だったのかと思い至った。

ラトゥールに関して言えば、人間(近代)がこれだけ地球の環境を破壊しておいて、それに怒った地球(非人間)が激怒して「反撃」に出たからといって、「では、これからは相互(共生)的に」という(クロポトキン的でもある)発想は、あまりにも(非人間に対して)虫が良すぎると思うのだが、橋川ならどう言うだろうか?

さて、『橋川文三 柳田国男論集成』に戻っていえば、終りに収められている、藤田省三と神島二郎との対談は、いずれもたいへん面白いものである。お勧め。

『天然知能』(郡司ぺギオ幸夫)

 

 

 

天然知能 (講談社選書メチエ)

天然知能 (講談社選書メチエ)

 

 

 

この本は、僕にとってはすごく難しい内容だったのだが、最後の方の部分で、考えさせられるところがあった。それをとくに書いておきたい。

まず、表題の「天然知能」ということだが、冒頭で簡潔に説明されている。

 

『本書で論じられるものは、天然知能という新しい概念です。天然知能は、人工知能の対義語として自然に根付いている知性、を意味するものではありません。決して見ることも、聞くこともできず、全く予想できないにもかかわらず、その存在を感じ、出現したら受け止めねばならない、徹底した外部。そういった徹底した外部から何かやってくるものを待ち、その外部となんとか生きる存在、それこそが天然知能なのです。(p9)』

 

 

この概念が、どのような世の中の趨勢に対峙して提示されてるか、次の文章を読めば分かりやすいだろう。

 

『本書では、自分にとって意味のあるものだけを自らの世界に取り込み、自らの世界や身体を拡張し続ける知性を、「人工知能」と呼びますが、それもまた、自分の「外部」を観察し、絶えず「外部」世界とやりあっている知性のように、一見、見えてしまいます。

 しかし、人工知能の「外部」は、自分にとって都合のいいものが集められた外部です。自分にとって意味のないもの、邪魔なものは、目にも入らない。知覚しないのです。いずれ自分の役に立ちそうなものだけが知覚され、自分の世界に組み入れられるか否か詮議される。そのような、括弧つきの「外部」を知っているだけで、冒頭述べた外部を理解した気になっている人たちの、なんと多いことか。(p10)』

 

 

これ以後、「天然知能」に関して色々と語られていく。

たとえば次のようなこと。

 

 

『私たち天然知能は、向う側感を持って世界を認識しているのです。視界の外に、見えぬものの存在を確信できる。私たちの知覚や認知は、むしろこのように、単独の感覚の外部を伴って成立するものではないでしょうか。(p99)』

 

 

知覚や認知以前のところで、見えないものの存在を感じ確信している(そして、その到来に備えている)ような、生の構え、それが天然知能というあり方だというわけだ。

ところで、それは私たちの日常からかけ離れた特別なものではないこと、むしろ日常に深く秘められた態度とも言えるのだということについて、本書の終りの方で著者は次のように語るのである。

ここが、僕が注目した箇所だ。

 

 

今の科学では、人間の行為は機械論的に決定されたもので、自由意志の存在する余地など

無いということになってきている。だが、日常生活においては、どんな人でも(決定論者の科学者であっても)、自分の意志によって物事を決めているかのように思ってるのが普通であろう。なぜ、こんな矛盾した意識が可能になるのか?(著者は、こういう論じ方はしてない。ここまでは、僕なりの勝手な理解である。)

著者は、最新の哲学の知見から、自由意志と決定論は二者択一(ジレンマ)になっているのではなく、(量子力学でよく用いられる)局所性というもう一つの概念を加えた「トリレンマ」になっており、この自由意志・決定論・局所性の三つのうち、一つが欠けた場合には、残りの二つは両立するのだという考え方を参照する。

つまり、局所性が放棄された場合には、自由意志と決定論は両立するのであり、われわれの日常的な意識のあり方は、それを体現したものだというわけだ。

では、局所性とは何のことか。著者の説明を見てみよう。

 

『局所性とは、空間的に隔てられた二つの場所で、一方が他方の情報を、情報を持つものに何ら影響を与えることなく、知ることができることを意味します。このことは、空間的に隔てられた場所の、知ること(観測)からの状態の独立性を意味するものです。(p184)』

 

 

『この局所性の定義は、空間全体を見渡して場所ごとの情報を知る、超越的存在を意味するのです。逆に、局所性が成り立たないとき、知ることの範囲は限定的となります。しかしその知ることの外部に一切関わらないというのではなく、知ろうとして影響を与えてしまう。局所性の不在は、このように見なすことを意味します。(p185)』

 

 

ここは分かりにくいのだが、「空間全体を見渡して場所ごとの情報を知る」というのは、近代科学(量子力学以前)の客観的な知のことを言ってるのだと思う。それに対して、量子力学では非局所性ということ、つまり観測者が対象から分離できず、影響を与える(もつれている)みたいなことが重視される(この辺も、僕の勝手な解釈である)。

著者は、この非局所性(局所性の不在)を、自己と外部との境界をはっきりさせず、曖昧なままにしておくことと捉え、日常的な意識に特徴的な構造だと考えるわけである。

この構造は、(「文明」から遠いと見なされるような)「自然に密着した文化」においては、より明瞭に見いだされる意識のあり方だとされる。この本で例として出てくるのは、アフリカの村の呪術を信じる酋長の行為だ。

 

『遠く離れた局所、それは、うかがい知れない外部や他者を意味するはずです。しかし、自然に密着した文化において、他者は互いに影響を与える形で、半ば、分離できない。「わたし」と他者は区別されるものの、完全に分離することが不可能なのです。(p194)』

 

 

だがそれは、もっと一般的に、人々の日常的な意識の或る部分を構成している要素でもあるのだと、著者は言う。

ここからの展開は、かなり衝撃的である。

著者は、「局所性の不在」によってもたらされる、この意識のあり方こそ、事物としてこの世界に到来せしめられ存在する自己が、能動的な「自分」であるかのように思いなされる転換の原因だと言うのである。

 

『(前略)局所性の不在の意味は、この、「わたし」と他者の、区別された上での未分化性にあるのです。

 自分は能動的な意思決定者として振る舞っているが、他者によって受動的に動かされているだけかもしれない、しかしそれが翻って、「わたし」の能動性の起源かもしれないのです。(p196)』

 

 

『わたしを動かすものが「ノーバディ」なのですから、わたし自身を動かす身体操作感を、「わたし」が持つことができるというわけです。徹底して受動的な「わたし」が、ノーバディの能動性を略奪する。それこそが、「わたし」の能動性だというわけです。

 

 私は、受動的な「わたし」が能動性を発揮できる仕掛けは、これ以外にないのではないかと思います。物質として個物化し、「おのずから」生を享けた「わたし」が、主体的に、能動的に、「みずから」世界に向けて働きかけるようになれる。「おのずから」から「みずから」への転換とも言うべき変革は、内と外の境界が「もつれ」ている以外に在りえない。

 タイプⅢの意識においてのみ、「わたし」の能動性が可能となり、身体操作感が可能となる。無意識を含むわたしの身体とその外部の境界も「もつれ」たものですから、身体操作感と同じ理由で、世界から受動的に作られ、誰のものでもないわたしの身体が、「わたし」の身体となるのです。従って、他者を含む外部に対して「もつれ」境界を持つタイプⅢの意識は、「わたし」の身体であるという感覚、身体所有感を持ち得るのです。果たして、所有身体は、「この身体」となるのです。(p217~218)』

 

 

上の文中で「タイプⅢの意識」というのは、非局所性を特徴とする、われわれの日常的な意識の性質のことだ。

著者は、先述の自由意志・決定論・局所性のどれが不在であるかによって、意識のあり方を三つのタイプに分けて分析してるのだが、自由意志が欠けているタイプⅠと、決定論が欠けているタイプⅡとは、80年代の流行語を使えば、それぞれ「パラノ」「スキゾ」に当てはまるのではないかと思う。

それに対して、局所性が欠けているタイプⅢは、日常の意識、いわば「常民」の意識構造を示すものと言えるのではないか。

そして、それが「自己」を形成する際の仕掛けを、著者が「略奪」という言葉で表現したことが、僕にはとくに示唆的だった。

著者は、次のようにも言っている。

 

『タイプⅢは、平凡な我々に最も親和的な意識構造と考えられます。決定論は破綻しておらず、常識的な原因と結果の一致、問題と解決の一致によって、日常的理解をやり過ごします。しかし局所性の不在によって、外部を予期しています。知覚していなくとも、外部の存在を感じてはいるのです。

 純粋なタイプⅢに留まる限り、外部は召喚されず、折角外部に対する感性はあっても、それが創造力として発揮されることはないでしょう。そして多くの場合、平凡な我々は「外部」のような厄介なものを、できるだけ敬遠しようとさえ思っているのです。(p224)』

 

 

著者は、タイプⅢ、つまり日常的な意識の性質は、「天然知能」にとって特権的なものではなく、「天然知能」は三つの意識のタイプの「中間形態」であるとも言っている。

だが、日常的な自己が、著者が言うように「略奪」によって形成されるものだとすれば、われわれが(たとえ「天然知能」としてであれ)、その「外部」を隠蔽し敬遠しようとすること、さらには排除へと向かうことは、かなり本質的な振る舞いだと言えるのではないだろうか?

『知覚していなくとも、外部の存在を感じてはいる』という不安定な状態に留まり続けることは、非常な難事だろう。

それが可能になるのは、この「略奪」の自覚・記憶を手放さないことによってだけではないだろうか。それは、自分が略奪し、抹殺した(こう過去形では言えないが)相手、つまり「他者」の感触を、決して忘れないで生きることだともいえよう。

逆に言えば、われわれがいつも「他者」を攻撃したり抑圧しようとするのは、この(自己にとって)根底的な「略奪」の事実に向き合うことを怖れるからに違いない。本当は他者によって生かされている(また、その事実を隠蔽し、「略奪」している)からこそ、われわれは「他者」を否定(抹殺)しようとするのである。

また、その排除や抹殺の一つの形態として、感じられるだけで顕在化することはないはずの「外部」を、心地よい「他者」として消費するということ、それもまた、われわれ「常民」の文化の暴力的な在り様の一部ではないのか。

この本を読みながら、僕が思いをめぐらせたのは、そんなことである。

 

 

吉川幸次郎『杜甫私記』

この本は1980年に出たものだが、内容は、1950年著者の吉川幸次郎が40歳の時に刊行された「杜甫私記」と、その約15年後に発表された続編「続 杜甫私記」とを併せたもの。

以下の引用は、いずれも「杜甫私記」の方からとっている。

杜甫という人は、50代の後半に死んだようだが、ずっと官吏の職にありつけず、各地を放浪したりした。結婚して子どもをもうけたのは、40歳を過ぎた頃だったろうと言われている。それでもまだ官吏になることは出来なかったのだが、44歳の時、ようやく下級官吏の仕事にありつくことが出来た。時あたかも、安禄山の反乱が起き、栄華と退廃を極めていた玄宗皇帝の治世が未曽有の大動乱へと突入していく、その同じ年のことである。

そんな時に、やっと職に就くことの出来た杜甫は、おそらくは生活上の事情から親戚のところ(多分)に預けていた妻子に会うため、奉先県という所へ小旅行をする。その時に作られたのが、有名な長詩「京より奉先県に赴くときの詠懐五百字」である。

その詩の最後の方で、杜甫が妻子の所にたどりついてみると、五人居た子どもの一人が飢えによる栄養失調のために亡くなっていたという。

貧困のために幼いわが子を死なせる。カール・マルクスと同じ経験を杜甫もしたのだ。

杜甫は、その悲しみと感慨を切々と吐露するが、そこでこの詩を終えるのではなかった。

若き吉川幸次郎による訳と注釈を読んでみよう。

 

 

『しかし忠厚な詩人は、わが身の上の悲しみを、わが身の上にのみ留めることはなかった。わが身の上の苦しみによって、ひろくあめの下の不幸な人たちの苦しみを、おしはかる。

 

 

生常免租税  生きては常に租税を免れ

 

名不隷征伐  名は征伐のうちに隷(い)らざるに

 

撫跡猶酸辛  跡(み)のうえを撫(かえ)りみては猶お酸辛(さんしん)をいだく

 

平人固騒屑  平(つね)の人は固(まこと)に騒屑(しどろ)なるべし

 

默思失業徒  黙して失業の徒を思い

 

因念遠戍卒  因りて遠き戍(いくさ)の卒(おのこ)を念えば

 

憂端齊終南  憂わしき端(ふし)は終南のやまにも斉(なら)び

 

澒洞不可掇  澒洞(こうどう)として掇(おさ)む可からず

 

 

おのれは士族のはしくれであるだけに、納税の義務もなければ、兵役の義務もない。それすらこうした悲しみを抱くとすれば、一般人の悩みはいかばかりであろうか。

かく家国の将来に対する痛烈な憂慮をもって、五百字の長詩はむすばれている。

 

吉川幸次郎杜甫私記』 1980年 筑摩叢書 p196~197)』

 

 

繰り返すが、この吉川の文章が書かれたのは1950年だ。

そこに、当時の日本の世相と筆者の感慨が重ねられていることは想像にかたくない。特に、「家国の将来」への憂慮、というような表現がそれをうかがわせる。

僕は、そこにはあまり共感しないが、ひとりの人としての杜甫の切実な感情が、詩を作ることのなかでおのずから見出していった流れの先に、「他者」である民衆の痛苦が、海のように見いだされたのではないかと思う(本当の普遍性とはそういうものだろう)。

「失業」の意味は、もちろん近現代と同じはずはないが、それが底辺の人々の苦境を示す語であることに違いはないだろう。

この長い詩は、杜甫自身にとっても、また中国の文学史のうえでも、画期をなすものであったという意味のことを、吉川は述べている。

 

 

もう一つ引いておきたい。

もう少し若い時期に書いたと思われる、「韋左丞丈に贈り奉る二十二韻」という詩の冒頭部分についてだ。韋左丞丈というのは、杜甫の親戚にあたる、位の高い官僚だったようだ。

その詩は、こう始められている。

 

 

『紈袴不餓死  紈(しろがね)の袴(はかま)はきたるものは餓えて死なず

 

 儒冠多誤身  儒の冠は多(しばしば)身の誤(さまた)げなり

 

 

 紈袴(がんこ)とは貴族の子弟を、その服装によって呼ぶ言葉である。そうした特権階級のもつ特権を、「餓死せず」でいい現しているのは、思い切ったいい方であるとせねばならぬ。詩の重量は、第一句に於いて、既に十全である。これに反し、儒の冠をかぶって先王の道を説くものは、常にうだつがあがらない。(同上 p82)』

 

 

貧困ではあっても、杜甫は官僚を目指すことの出来る階級に属する人間だった。

だから、彼にとっては民衆は、そもそも「対象」にすぎない存在だっただろう。それが真に「他者」として見いだされるには、上に触れたような体験と、詩作の営為が必要だったのだと思われる。

だが、詩作を拠り所とした彼の生きる姿勢は、常に民衆のそばにあるものだったとも言えると思う。

「餓えて死なず」という表現の激しさは、やがて来る、彼自身と家族の痛苦を予見しているかのようである。

 

 

 

ジェイムソン『21世紀に、資本論をいかに読むべきか?』

前回に書いた「オリガーキー」という言葉だが、ググってみたら寡頭制のことだと書いてあった。少数の人間が支配する政体のことで、多数支配を対義語とする、とあった。まあ、今の日本の実態にほぼあてはまりそうである(今だけか?)。

さて、この本も図書館が閉館になる寸前に駆け込みで借りたもの。著者のフレデリック・ジェイムソンだが、日本のポストモダンブームが全盛だった80年代ごろにはよく聞いた名で、僕も『言語の牢獄』という本を読んだことがあるが、なんだかよく分からなかった。

今回、この本を読んでみて、これほど直球の左翼の思想家だったのかと、驚いた。日本のポストモダンブームを代表していたような論者たちの現状と比べると、さすが米国の左翼知識人は、筋金が入っていると思う。

さて、書名の通り、「いま資本論を読み直す」という、特にリーマンショック後、急増した趣旨の本なのだが、ジェイムソンの『資本論』読解は、一見意表を突くものである。それは、「失業」という概念の重要性に中心を置くということだ。

 

 

『このマルクスの「法則」、すなわち「資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるをえないということになるのである」という法則は、戦後の一九五〇年代、六〇年代の裕福な時代には、おおいにあざけりの対象となった。今日では、それはもはや冗談の種ではなくなっている。グローバリゼーションをマルクスが予言したことと並んで、この分析こそ『資本論』の今日的で世界的な規模におけるアクチュアリティーを更新するものだと言える。また別の意味では、この分析は「包摂」の一局面を指し示しているとも言える。経済外的なもの、社会的なものは、もはや資本の外側には存在せず、それらに吸収されてしまった。(中略)したがって、失業―あるいは極貧、貧民―の状態にあることはいわば、資本によって雇用されて失業の状態にあるということになる。失業者はまさしく、機能していないことによって、経済的な機能を果たしているのである(たとえ彼らがその働きに対して報酬を得ていなくとも)。(p116)』

 

 

たとえば熊野純彦のように、金融資本の重要性に着目したことに『資本論』の現代的読み直しの鍵を見ようとする立場もあると思うが、ジェイムソンはそうではなく、『資本論』がやはり産業資本の構造を論じた本であることを強調する。

なおかつ、これも広く見られる「本源的蓄積」や「植民地主義」の問題に重きを置くような『資本論』の読解にも、ジェイムソンは異を唱えるのである。

 

 

『われわれは引き返して、(引用者注: 植民地化や原始的蓄積とは)別の道を辿らなくてはならない。それは組み合わせのもう半分、つまり労働人口の生産の道である。この道を辿ることを正当化する術は、そもそも資本主義を作り上げたのは労働者であるという事実を思い出すことである。(p133)』

 

 

ジェイムソンが着目するのは、生存と再生産の問題とも呼べる次元である。

そこから、マルクス自身の著作としては未完に終わった『資本論』全体の構想を想像し直すという雄大な観点が出てくる。

 

 

『ここまできてようやく銘記されるべきは、再生産の問題こそが、時間のパラドクスを解く鍵なのであり、『資本論』がこの再生産の問題全体に着手するときは、『資本論』の全体計画が開示されるときでもある、ということである。すなわちマルクス共時的な「表象」が仮面を外され、見捨てられ、第二巻のめまいのするような流通のリズム、第三巻の読者をさらに惑わせるような多資本間の共時性のイメージを投射しつつ、資本システムの巨大な時間性がものものしく姿を現わすのである。(p176)』

 

 

これは、ジェイムソンらしいと言えると思うが、彼は『資本論』という書物では、「労働」が描かれてないということに注目する。マルクスが、この書物での冷徹な資本主義分析を通して迫ろうとしたもの、それは「労働」の表象不可能性であり、また労働者とその家族が置かれた生存の現実、一言で言えば「貧困」の表象不可能性であると、ジェイムソンは言う。

この、資本主義という動態の核心をなす描き得ない(表象不可能な)もの、言い換えれば、表象不可能な現実の核心、それこそが、マルクスが『資本論』の弁証法的定式によって暴き出した「失業」というものだ、ということになる。

そして、この「失業」という生存の現実が、資本主義という動態の行末の鍵を握っているという事実は、マルクスが予言した資本のグローバル化(暴力的拡大の全地球的展開)が現実のものとなった現在においてこそ、その重みを最も増している、と言うのである。

 

 

弁証法的な定式の衝撃は、資本主義的生産様式が、社会民主主義のような施策によっては任意に停止することができないかたちで拡大を続け、生産を続けるものであること、新しい形の蓄積と失業者予備軍の拡大とが破滅的に一体となっていることを強調したことにあった。そして現在、その事態は、地球規模で進行している。利潤動機は、いまや「経営合理化」のイデオロギーのもとで拡大増幅されている。銀行や投資家は、「効率」の名のもとにより多くの失業を生み出すことのできる企業を評価する。こうした展開は異常なことではなく、歴史の流れから言って論理的に妥当であり、資本主義そのものの拡張に伴う性質のものなのである。マルクスの「絶対的な一般的な法則」はこの動態性を指摘しようとしていたのであり、たんに一国の企業文化のような、余計な、もしくは避けられるような戦略としてそれを嘆くことに留まっていたのではない。(p217)』

 

 

そして、結末部では、次のように言う。

 

 

『本書で概略してきた『資本論』の動態性によってこそ、われわれはグローバリゼーションをマルクス主義の立場から分析することができるわけだが、この分析が可能にするのは、こうした多数の悲惨と強制的な怠惰の状況を喜んで記録することであり、軍閥と慈善団体の侵略にひとしく無力に餌食となってしまう人口層を、また、活動もなく生産もない、そこでは純粋に生物学的な存在の時間性が解釈されうるような、あらゆる形而上学的な意味から言ってありのままの生活を、喜んで記録することである。 

 私の信じるところでは、こうしたすべてのことを、さまざまな悲劇的な情熱ではなく、グローバルな失業の観点から考えることこそが、いま一度、地球規模での変容をもたらす新しいタイプの政治学を発明することにつながるのである。(p253~254)』